身分的にどっちが高いの?とか、立場的にどっちのほうが強いの?とか、そもそもこの人何の仕事をしているの?とか、時代劇にはさまざまな疑問がつきものですよね。史実であれ、フィクションであれ、朝鮮王朝が舞台のドラマなら、「政治のしくみ」について知っていると、よりドラマを楽しむことができますよ。簡単に、朝鮮王朝の政治のしくみについて解説しましょう。
朝鮮王朝の政治組織
朝鮮王朝の政治組織を簡単に図で表すと、こんな感じになります。以下、ざっくりと解説しましょう。
「京官職(キョングァンジク)」
※ちょっとチカチカしますが、フォントの背景色を図に対応させてみました。
朝鮮時代の官職は、「京官職(キョングァンジク)」と「外官職(ウェグァンジク)」との大きく2つに分けられます。簡単に言うと、「京官職」は、中央政府の役人、「外官職」は地方政府の役人ということです。
「京官職」とは、都に設けられていた各官庁の官職ですが、必ずしも都にいるとは限りません。たとえば17世紀以降なると、「開城府」や「水原府」には、留守居役として「留守(ユス)」という官職がありましたが、彼らも京官職に含まれます。
「京官職」は、国政を統括する議政府(ウィジョンブ)と、その下で王の命令を執行する行政機関六曹(ヨクチョ)を中心に編成されていました。六曹の下にはさまざまな官庁が設けられ、行政の専門性と効率性を高めるために、業務を分担しました。その一方で、議政府と六曹の高官が政策会議に参加したり、経筵で政策を協議することもありました。そうすることによって、各官庁の間での業務を調整しつつ、政策を推し進めようとしたのです。
司憲府(サホンブ)・司諫院(サガヌォン)・弘文館(ホンムングァン)を、あわせて三司(サムサ)と呼びます。政治を批判し役人の不正を監察する言論機能を担っていました。彼らの官職としての等級は高くはありませんでしたが、その言葉は、たとえ国王であってもむやみに妨げられることはなく、これによって権力の独占と不正を防止しようとしたわけです。そのため、学問と徳望の高い人が選ばれました。彼らは、よほどのことがないかぎり、後日、高い官職につくことができましたので、あこがれの出世街道のひとつだったといえるでしょう。
さて、ドラマでは必ず登場するのが義禁府(ウィグムブ)。あの、作品によっては相当グロい描かれ方をする韓ドラ名物の拷問シーンは、ここが舞台。国家の大罪人(一番ポピュラー(?)なのが、「謀反」ですね)を罰するための役所です。
承政院(スンジョンウォン)は、これも韓ドラ名物の「王命」を出したり管理したりする部署です。王様の秘書室のようなものです。
都の行政と治安を担当するのが漢城府(ハンソンブ)。都庁と警視庁がドッキングしたような役所と考えるとわかりやすいかもしれません。
歴史書を編纂し保管するのが春秋館(チュンチュグァン)で、最高学府が成均館(ソンギョングァン)です。成均館は現在でも「成均館大学」として残っています。
「外官職(ウェグァンジク)」
「外官職」は、地方の役所に設けられている官職です。全国を八道にわけて統治しました。郡の大きさによって地方官の等級も決まりました。小さな郡県を統合して、全国に330ほどの郡県が置かれます。
さらに全国の国民を国家が直接支配するために、すべとの郡県には、「守令(スリョン)」という役職がおかれています。彼らは、いわば王の代理人。地方の行政・司法・軍事を掌握していましたので、ある意味やりたい放題も可能でした。「水戸黄門」の「お代官様」のような人たちなので、悪さをすることもあったみたいですね。
でも、守令を指揮・監督して、人々の生活を探るために「観察使(クァンチャルサ)」が派遣されました。彼らは、全国八道にそれぞれ任命されており、監察権、行政権、司法権、軍事権をもった重要な職責を担っていました。また、身分を隠してひそかに地方の実情や地方官の仕事ぶりを監視する「暗行御史(アメンオサ)」という役職もあり、これは王命によって随時任命されたそうです。朝鮮にも水戸黄門みたいな人はいたんですね。ちなみに、ドラマでは王様も「暗行」、すなわち「おしのび」というのをよくやってます。でも、実際はどうだったのでしょうね。
朝鮮王朝の官吏になるには? | 厳しい出世レース
朝鮮王朝で官吏になるためには、4つの方法がありました。もっとも有名なものが「科挙(かきょ)」ですね。そのほかに、「取才(しゅさい)」「蔭叙(いんじょ)」「薦挙(せんきょ)」という3つの試験もあります。韓国ドラマ時代劇では、イケメンさんたちがなんの苦も無くいつの間にか偉くなっているということも多いですが、実際はどうだったのでしょうか。それぞれみていきましょう。
科挙
科挙には、文官を選ぶ「文科」と、武官を選ぶ「武科」、技術官を選ぶ「雑科」の種類がありました。文科は3年ごとに実施される定期試験の「式年試(しきねんし)」と、不定期に行われる「増広試(ぞうこうし)」「謁聖試(えっせいし)」などがありました。式年試は、基本的に3次試験までありました。まず、初試で各道の人口に比例した人数の合格者を選び、覆試という2次試験では33人を選抜します。そしてさらに王の御前で実施される殿試で順位が決定されるという、長い試験を勝ち抜く必要があります。
また文科を受験するには、小科に合格していなければなりません。小科とは、文官の予備試験です。ここで合格した人が、生員や進士と呼ばれます。この小科に合格した人は、文科を受験するほかに、成均館に入学したり下級役人になったりすることができました。
武科もほぼ同じような手続きで試験が行われましたが、最終の合格者は28人となっていました。雑科も3年ごとに行われ、分野ごとに定員が設けられていました。
王の親族を除けば、受験に特別な制限はありませんでしたが、文官の場合には、悪徳役人の息子や、庶子(嫡出以外の子)などは受験が制限されていました。基本的には、これが中央官庁の役人になるための出世レースですが、実は別なルートもあるんです。
取才(しゅさい)・蔭叙(いんじょ)と薦挙(せんきょ)
まず、学力が不足していたり、年齢が高くて科挙の受験ができないという人は、取才という特別な採用試験を経て、下級実務職に任命されます。一方、蔭叙・薦挙は、科挙を受験しなくても、官職につく方法です。数は多くはありませんでしたが、身分の高い家柄の子弟は、最初からある程度の位階の官職につくことができたり、高官の推薦を受けて簡単な試験だけで登用されたりするということもありました。つまり、イケメンサンたちが意外とすんなり官職についているというシーンがあるとしたら、こうした特権的な制度を利用している可能性もあるわけです。
また試験を受けているシーンがあるとしても、イケメンさんたちはいとも簡単に官吏になっていますよね。でも、実際には相当な努力が必要だったみたいです。一族を挙げて、受験生を支援することも珍しくはなく、これは、現在の韓国の大学入試にもまだ名残があるように見えます。
また、権力の集中と不正を防ぐために、近い親戚と同じ役所に勤務できないようにしたり、出身地域の地方官には任命しないようにしたりする「相避制」という制度もありました。