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韓国時代劇の王様たちとその時代

李成桂(イ ソンゲ) 太祖 

李氏朝鮮を建てた太祖 李成桂(イ ソンゲ) は、日本の歴史の教科書にも載っている王様です。教科書では名前だけでした。どんな人だったのか紐解いてみましょう。

李成桂のプロフィール

李成桂は、現在の北朝鮮の北東部「咸鏡(ハムギョン)道」と呼ばれる地域の出身です。「永興」というところで生まれたといわれています。咸鏡道の「永興」というところらしいですが、何しろ北朝鮮の地名なのでどこなのかよくわかりません。

当時の朝鮮半島は「高麗(こうらい)」の末期。「元」の支配下にありましたが、その「元」も終末を迎えようとしていました。朱元璋の率いる「明」が、勢力を伸ばし新たな王朝を打ち立てていたのです。そんな「元」の弱体ぶりをみて、恭愍(コンミン)王は「反元親明」の政策をとり、内政改革を行います。その王のもとで、「元」の勢力を駆逐したのが李成桂でした。

元の末期におきた「紅巾の乱」は高麗にまで波及し、その賊徒が都の「開京」まで侵攻、陥落したほどです(のち、李成桂らが奪還)。さらに、海岸部では、倭寇の侵攻にさらされ、民衆の暮らしは窮地に立たされていました。そんなときに、こうした侵入者たちを撃退して、名将崔瑩(チェ・ヨン)とともに、李成桂は大きな戦功をあげたのです。

はてな

紅巾の乱:1351年に起きた反乱。「白蓮教徒の乱」ともいいます。この乱をきっかけとして朱元璋が頭角を現し、やがて明を建国します。

威化島(イファド)の回軍

ところが、恭愍(コンミン)王死後、王位を継いだ王・禑(ウ)のとき、明はかつての元の直轄地で恭愍王のときに奪還した「鉄嶺(現在の中国東北部)」以北の地を、今度は明の直轄地であると通告してきます。

高麗はこの通告を拒否、崔瑩の主張により明の支配下にあった遼東へ遠征軍を派遣します。この指揮官が李成桂でした。

しかし、遼東へ向かうには「鴨緑江(アムノッカン)」という川を渡らなければなりません。この川が難所で、橋をかけようにも長雨により増水して多くの死傷者が出ます。さらに、兵士らの間には病気もまん延、これ以上の進軍は無謀と判断した李成桂は、王命に背いて軍を引き、都を制圧します。これが、「威化島(イファド)の回軍」と呼ばれる事件です。

李氏朝鮮の建国へ

その後、政界での幾たびかの争いを経て、李成桂は次第に権力を確立、土地制度改革などを断行していきます。やがて、李成桂に仕える者たちの中から、李成桂を王にする動きが現れ、最後の対抗勢力であった鄭夢周(チョンモンジュ)を、李成桂の五男李芳遠(イバンウォン・のちの太宗)が暗殺して排除、最後の高麗王・恭讓(コンヤン)王から、禅譲という形式を整えて、王位につきます。

李成桂は、王位につくと、ただちに明へ使者を送り、国王の交代の承認を求めます。さらに、明の勧めにより国号を「朝鮮」とし、以後、約500年に及ぶ王朝の礎を築いていくこととなります。

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禅譲(ぜんじょう):皇位や王位を徳のある者に、すすんで譲ること。あくまでも形式で、実際には強制的に「禅譲」させられる。中国の王朝でもよくある形式。

「朝鮮」は、明と君臣関係を結ぶこと(明を宗主国とすること)によって、善隣友好の関係を維持することに努めました。のちに、明が清に滅ぼされてからも、最終的には清を宗主国として王朝を維持していくこととなります。

李成桂の家族

太祖李成桂は、73歳で亡くなりました。それまでに2人の正妃と、4人の後宮との間に13人の子どもたちをもうけています。

神懿(シニ)王后・韓(ハン)氏

李成桂の最初の夫人です。彼女は、李成桂が官職につく前に、お嫁に来ました。そして李成桂が即位する1年前(1391)に54歳で亡くなっています。ですから、実際に王妃として叙せられたわけではありません。第2代王定宗の即位後に、王妃に追尊されました。彼女との間には、6男2女がいます。男の子は以下の通り。5番目の芳遠(バンウォン)は、ドラマでもしばしば登場します。

  1. 鎮安(チンアン)大君  芳雨(バンウ)
  2. 永安(ヨンアン)大君  芳果(バングァ) =のちの定宗
  3. 益安(イガン)大君   芳毅(バンウィ)
  4. 懐安(フェアン)大君    芳幹(バンガン)
  5. 靖安(チョンアン)大君   芳遠(バンウォン)=のちの太宗
  6. 徳安(トガン)大君     芳衍(バンヨン)

李成桂が1335年の生まれですから、逆算すると彼女とは2つ違いくらいですね。ちなみに長男の芳雨は1354年の生まれです。15歳くらいでお嫁に来て、若いころから苦労をともにしてきたのに、その苦労が報われることなく死んでしまったという感じでしょうか。ちょっと気の毒かも。

神徳(シンドク)王后 康(カン)氏

李成桂の2番目の夫人(継室)です。彼女は、当時の高麗でも名門とされた家柄の出身。正妻の韓氏は地方役人の娘ですから、影響力が違いますね。建国に際しては、大きく尽力したと考えられます。彼女との間には、2男1女がいます。

  1. 撫安(ムアン)大君  芳蕃(バンボン)
  2. 宜安(ウィアン)大君 芳碩(バンソク)

その他の後宮と子どもたち

ドラマ的にはほとんど無視されている存在ですが、一応書き留めておきましょう。

後宮は、誠妃元氏・貞慶宮主柳氏・和義翁主金氏・賛徳周氏の4人です。詳しい説明は省きますが、妃・宮主・翁主・賛徳は、いずれも当時の後宮を指す言葉です。このうち、誠妃元氏と貞慶宮主柳氏には子どもはなく、和義翁主金氏と賛徳周氏にそれぞれ一人ずつ女の子がいました。なお、「翁主」とは庶出の王女のことですが、朝鮮初期には王の後宮のことも翁主と呼びました。

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