中宗の時代は、中宗ご本人よりも、周りの人たちがとっても個性的なのが特徴。そのなかで、知っておきたいのが趙光祖(チョグァンジョ)です。チョイ役もしくは、名前だけという登場の仕方もしますが、この人を知っていると、中宗時代のドラマの理解がすすみますよ。
趙光祖(チョグァンジョ)ってどんな人?
中宗は、クーデターによって王位につくことができたのは、そもそも兄の燕山君(ヨンサングン)が暴君だったから。ということは、中宗は真っ先に混乱した朝廷や社会を立て直さなければならなかった、わけですね。そこで中宗は、政治改革を行い、勲旧派の過大な勢力を抑制するために、士林派の勢力を引き入れます。その筆頭にいたのが趙光祖(チョグァンジョ)です。彼は、16歳で金宏弼という学者に執事します。以降、彼は恩師の教えを徹底して実践し、儒学的な価値観を大切にして過ごしまた。身なりを正し、礼節を重んじ、厳しく自分を律したといいますから、コチコチの儒学者だったようですね。
28歳で政界へ
彼は28歳で成均館へ入り、やがて推挙されて官職につきます。そして、中宗に重用されるようになり、急進的な政治改革を行いました。彼は、中宗に儒教的価値観を政治と民衆の教化の基本にするよう強調し、徹底した儒教思想に基づく王道政治(王の徳によって行う政治)の実現を目指します。
中宗は、趙光祖の物事を的確に判断する能力と、人に媚びない性格を好み、実直な彼に心酔していきました。中宗自らも、理想の実現のため努力を惜しみませんでしたが、あまりに過激で急進的な彼の政治改革に、勲旧派勢力の不満が高まっていきます。さらに、中宗の政治や生活についても儒教的価値観を強要するようになったため、中宗にも疎まれるようになっていきました。
儒教的な価値観や規範に基づく言動は、現代の日本でもしばしば高く評価されることがありますから、悪いものではないのでしょうが、一事が万事その規範を要求されてはたまりませんよね。民衆や臣下の手本とならなければならない王様ですから、趙光祖がそうした「君子」像を中宗に求めるのもわからないではないですが、中宗もかなり窮屈な思いをするようになったのかもしれません。
走肖為王
これは、甘い汁などを使って葉っぱに文字を書き、それを虫に食わせたという仕掛けがあったといいます。日中台韓、東アジアの物語ではよく出てくる話です。
そんな出来事や、勲旧派らの讒言により、ついに趙光祖は失脚します。彼を慕う成均館の学生らの訴えなどもあって、流刑に処せられた彼ですが、結局、のちに自決させられることとなりました。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」といいますが、まさにガチガチに儒教の価値観にとらわれすぎた結果、なのかもしれません。良く言えば、自分にも他人にも厳しかった人、なんでしょうね。この事件については、『女人天下』で詳しく描かれていて面白いです。『大長今』でチャングムが、師匠のハン尚宮とともに流刑になったのは、この人と謀反に関わった(と、でっち上げられた)ことが原因です。
彼の政治改革は結局失敗しましたが、その方向性の正しさは認められ明宗の時代から宣祖の時代、士林が政治勢力の中心となるのに大きな役割を果たすことになっていきます。