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韓国時代劇の王様たちとその時代

世祖(セジョ) 第7代王

幼い甥から王位を簒奪した世祖(セジョ)。それまでの穏健な文治政治から、苛烈な武断政治への転向をはかり、弱体化した王権を強化させました。

首陽大君の王位簒奪

邪魔者はすべて消す!

幼い端宗(タンジョン)が即位したとき、政局の構図は、王族の筆頭である首陽(スヤン)大君のグループと、端宗の父文宗(ムンジョン)の遺命を受けた金宗瑞(キムジョンソ)ら顧命大臣のグループとに大きく分かれ対立していました。首陽大君は、文武両道、剛直な性格でかつ独占欲も強い人物であり、王権中心主義の人でもありましたから、金宗瑞らにとっては大きな脅威となっていました。そこで金宗瑞らは、首陽大君の勢力をそぐために、比較的良好な関係にあり、学問と文芸にも優れていた安平(アンピョン)大君と手を組みます。

この状況に危機感をもった首陽大君は、1453年、金宗瑞を襲撃して殺害してしまいます。そしてその足で宮殿へ行くと、王命と称してその他の大臣たちを呼びつけ次々に殺してしまいました。そして「金宗瑞らが、安平大君を王位につけようと計画した」という名目を掲げ、クーデターを成功させます。これが癸酉靖難(ケユジョンナン)です。

さらにその後、端宗を上王に追いやり自ら王位に就くと、端宗の復位を図ろうとする者たちを次々と粛清し、さらには幼い甥にも賜薬を下して殺してしまいました。

世祖の強権政治のはじまり

世祖は、自分に挑もうとするものを次々と取り除き、王権の強化に乗り出します。まず、世宗の時代に始まった「議政府署事制」を廃止して専制政治に近い「六曹直啓制」を断行、さらに端宗に忠誠を誓い復位運動を進めたのが、集賢殿出身の文人たちだったことから、集賢殿も廃止してしまいました。さらに、学者が王に講義しかつ政治問題討論の場でもあった「経筵(キョンヨン)」もなくして、台諫(テガン=司憲府と司諫院の役人のこと)の機能を弱めてしまいます。その一方で、王命を扱う承政院(スンジョンウォン)の機能が強化されていきました。

自分に従順なものだけ登用

世祖は、自分に批判的な勢力に対しては容赦なく排除しましたが、服従するものについては大変寛大でした。世祖は、承政院を中心に国事を運営していましたが、承政院と六曹は、すべて世祖の腹心である癸酉靖難の功労者たちが掌握していました。つまり、政治は王と側近によってなされる状況を作り上げたわけです。この結果、王権は強化されましたが、その反面、権力を握った功臣たちの勢力が増し、こののち職権乱用で政治腐敗が広がっていくこととなります。

仏教に救いを求める

懿敬(ウィギョン)世子の死

世祖は晩年、息子の懿敬(ウィギョン)世子を原因不明の病で亡くします。一説によると、昼寝の最中に金縛りにあい、死んでしまったのだとか。これは、端宗の母である顕徳(ヒョンドク)王后の呪いだとうわさされました。また、顕徳王后が自分に唾を吐きかける夢を見てから、皮膚病にかかって苦しんだという話や、その皮膚病を文殊菩薩によって癒してもらったという話なども残されています。

いずれにせよ、世祖といえど人の子、さすがに幼い甥の命を奪ったことには罪悪感をもっていたのかもしれません。

儒教の理念には受け入れられない世祖の背徳行為

朝鮮の建国の理念は、あくまでも儒教です。自分に敵対する安平大君や錦城(クムソン)大君らの弟たちを殺し、甥から王位を奪ったうえに殺してしまったという行為は、名分と礼を重んじる儒教的な価値観からは、決して受け入れてもらえるものではありませんでした。そこで、世祖は仏教を隆盛させ、儒教理念に透徹した文人たちをけん制しました。つまり、儒教的な立場の弱い世祖は、仏教を隆盛させることで身を守ろうとしたのでしょう。

「王位を簒奪した」という事実は、王権を強化し国の安定を図り、自分に従順な者たちに力を与えたとしても、消えることはありません。面と向かっては言えなくても、世祖には冷ややかな世間の目が注がれていたのかもしれませんね。

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