第8代王の睿宗(イエジョン)の在位はわずかに1年2か月で、しかも王権をまともに行使できなかった王様といわれています。睿宗(イエジョン)の治世では、初めての垂簾聴政が行われました。
朝鮮王朝初めての垂簾聴政
世祖(セジョ)が即位したのは38歳のときです。そうした年齢的なこともあったためか、後宮を多くは娶りませんでした。ゆえに、子どもも4男1女しかいません。このうち、正妃の貞熹(チョンヒ)王后の産んだ王子が、懿敬(ウィギョン)世子と海陽(ヘヤン)大君でした。
懿敬世子が若くして急逝してしまったため、世祖は当時7歳だった海陽大君を世子にします。世祖から王位を継いだ時、睿宗は18歳でした。十分政治にも携わることができる年齢でしたし、世子としての経験も積んでいましたが、まだ成人していないということと健康上にも問題があったため、母親の貞熹王后が摂政を務めることとなります。これが、朝鮮王朝で初めて行われた垂簾聴政となります。
貞熹王后は、大胆な性格で、決断力に富む女傑だったといわれています。肝っ玉母さんが摂政をすることになったというわけですね。これにより、貞熹王后は、政治的な権力を持つことになります。
南怡将軍の謀反事件
わずか14カ月の在位ながら、睿宗の時代にも大きな粛清が行われました。この事件で30人余りの武人官僚が処刑され、その一族が奴婢の身分に落とされました。
癸酉靖難(ケユジョンナン)の功臣、世祖の参謀として政治の実権を握った韓明澮(ハン ミョンフェ)や申叔舟(シン スクチュ)らの勢力が、世祖時代におきた「李施愛(イ シエ)の乱」という地方の反乱の鎮圧で功をあげ世祖が寵愛した南怡を排除しようとして起きたトラブルです。
南怡は、兵曹判書の職についていましたが、世祖の死後、韓明澮らの策略によって任を解かれ、降格させられてしまいます。そんなある夜、南怡は、空を彗星が流れる光景を見ながら「彗星が出るということは古いものを追い払い新しいものを受け入れるという兆(きざ)しだ」と、つぶやいたことばが、災いのもととなりました。
これを、柳子光という人物が、「南怡が謀反を企んでいる(彗星の出現は新しい王朝が現れる兆しで、この機に挙兵し自分が王になろうとしている、という意味に解釈できるようですよ)」と告発したのです。柳子光も「李施愛の乱」功臣でしたが、自分より世祖に寵愛をうけた南怡をねたんでいたといいます。あれよあれよという間に、謀反人に仕立て上げられてしまった南怡は、逃げどころもなく、拷問の末に罪を認めてしまいます。この事件に関係したとされる人物らは全員処刑され、また家族や親交のあるものたちも奴婢の身分に落とされたり、辺境に追いやられたりすることとなりました。
この事件が必ずしもでっちあげ、というわけでもないようですが、純祖(スンジョ)の時代に名誉回復がなされました。
今日でも、南怡に関連した超人的なパワーをもつ伝説は多く残っており、民間信仰の対象となっているそうです。