憲宗(ホンジョン)の時代から、朝鮮王朝は本格的に衰退の道を歩み始めます。国内では勢道政治の弊害による政局の混乱と自然災害、国外では西洋列強の外国船の出没など、多くの困難に直面しました。
カトリック教徒への弾圧
憲宗は、純祖(スンジョ)の孫です。父親は孝明(ヒョミョン)世子ですが、彼は即位前に死んでしまいます。憲宗は、純祖が亡くなると7歳で即位しますが、幼いために、純祖妃の大王大妃純元(スヌウォン)王后が垂簾聴政を行いました。
この時代も引き続きカトリック教徒への弾圧は行われ、さらに強化されていきます。特に1839年におきた「己亥迫害」では、カトリック信者とともに朝鮮に滞在していたフランス人宣教師らも処刑されました。この年、民衆に対してカトリックを禁じる教書が下されます。こうしたカトリック教徒への弾圧は、のちの時代において、外交紛争を引き起こすこととなります。
豊壌(プンヤン)趙(チョ)氏の勢道政治
憲宗の即位後約6年で、純元王后の垂簾聴政が終わると、安東(アンドン)金(キム)氏の勢力はやや衰えます。代わって台頭してきたのが、豊壌(プンヤン)趙(チョ)氏です。憲宗の母親神貞(シンジョン)王后の父親を筆頭とする一族で、幼い憲宗の側に仕えながら、一族を要職につけていきます。こうして、安東金氏と豊壌趙氏は、国内政治はそっちのけで、政権争いを繰り広げました。民衆の暮らしは困窮し、さまざまな社会問題が噴出して治安も悪化したにも関わらず、役人の不正がはびこります。当然民心は離れ、謀反事件もたびたび起こりました。
特に、これといった政治的勢力もないような中人や、没落両班が謀反事件を計画するという事態は、もはや誰でもが王の権威に挑むことができる、もしくはそれが許されるような状況であったことを意味します。つまり、王の権威はすでに失墜し始めていたわけです。
外国船の出没
1845年、イギリスの軍艦サマラン号が、済州統と西海岸を不法に測量して帰るという事件が発生します。さらにその翌年には、フランスの軍艦3隻が忠清道の外煙島に進入して、王あてに先のフランス人宣教師虐殺事件に対する問責書簡を渡して帰るという事件が発生しました。その後も外国船が各地に頻繁に出没し、社会は大きく動揺します。
この時から、朝鮮は西欧列強による門戸開放と通商を強く求められるようになっていきます。しかし、政権の奪い合いが続く朝廷では、当時の国際情勢や周辺情勢に的確に対応することもできず、泥沼の事態に陥っていくこととなるのです。
憲宗は、在位14年でしたが、親政できたのはわずかに8年ほど。それさえも勢道政権の影響下にあり、安東金氏と豊壌趙氏の権力闘争に巻き込まれた挙句、社会を安定させるような政策も立てられませんでした。さらに、急変する国際情勢を正確に読み取ることもできず、対応もできませんでした。そして、後継者もないまま、23歳の短い生涯を終えてしまいます。