亡国の王となった第24代王純宗(スンジョン)。日本政府の傀儡王として、何もできないまま、朝鮮王朝の歴史を閉じます。
大韓帝国の植民地化
純宗(スンジョン)は、高宗(コジョン)の長男で、母は明成(ミョンソン)皇后・閔氏です。日本政府によって強制的に退位させられた高宗の譲位を受けて、朝鮮第27代王、大韓帝国第2代皇帝として即位しました。とはいえ、その在位期間は日本の侵略を受け続け、ついには主権を喪失し、朝鮮王朝の幕を閉じることとなります。
純宗即位直後、日本は国政全般に対して日本人統監が干渉できるようにし、政府の要職に日本人を就任させました。さらに財政難を理由に大韓帝国軍を解散させ、司法権をも奪います。
日本は日韓併合を推し進め、満州問題についてロシアと事前に話し合うために伊藤博文を満州に派遣しました。このとき、中国のハルビンで安重根(アン ジュングン)が伊藤を暗殺するという事件が起きます。日本は、この事件に乗じて、1910年日韓併合条約を成立させ、大韓帝国を滅ぼします。
反日運動の展開
こうした事態に対して、朝鮮の人たちも黙ってみていたわけではありません。全国各地で義兵が蜂起し、日本の支配に対して武力による抵抗運動が活発化します。また、人材を育成して主権を回復しようという愛国啓蒙運動も展開されました。しかし、こうした動きは、強硬派と穏健派とに分かれていたため、民族として一つの力を結集して行動することができず、日本政府を大きく揺さぶるほどの力にはなりませんでした。
日本によって、大韓帝国が滅ぼされた後、純宗は皇帝から王へと降格され、昌徳宮で暮らしました。王としての一応の待遇は受けつつ、1926年、52歳で生涯を閉じます。二人の妻を娶りましたが、子どもは得られませんでした。
英王 李垠(イウン)
高宗には、垠(ウン)という名前の王子がいました。貴妃・厳氏から生まれた、純宗の異母弟です。純宗の即位にともない、1900年7月に皇太子に冊封されると、伊藤博文によって日本に留学させられます。1910年、日韓併合により純宗が廃位されると、王世弟(ワンセジェ)となり、さらに1920年、日本の皇族梨本宮の長女、方子(まさこ)と政略結婚をします。1926年に純宗が死去すると、形式的に王位を継ぎますが、日本から帰国することは許されず、陸軍士官学校などで教育を受けて陸軍中将に任じられました。
1945年、日本の敗戦により故国が解放されましたが、日韓の国交断絶と韓国内の政治的な事情により帰国が叶わず、さらには皇族としての特権も失い、在日韓国人として1963年まで日本での暮らしを強いられます。
その後、ようやく国籍を回復して方子夫人とともに帰国、以後は障がい者の支援に取り組みました。彼の死後は、方子夫人がその遺業を継承しました。二人には、息子が二人ありましたが、長男は夭折し、次男も後継者を残さずに亡くなります。
現在、旧李王家は、高宗の三男である義王(母は貴人・張氏)の血筋によって継承されています。