朝鮮王朝の王様たち

高宗(コジョン) 第26代王

多大な国難に、果敢に挑みつづけた第26代王高宗(コジョン)。しかし、朝鮮王朝の没落は、もはや止められないところまできていました。日本や清など外国勢力が絡んでくるので、ちょっとややこしいかもしれません。

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興宣君の緻密な戦略

哲宗(チョルチョン)は、後継者を残さないまま亡くなります。この時を逃さず、歴史の舞台に躍り出たのが興宣(フンソン)君李是応(イ ハウン)です。まず、彼がどういう血統だったのかを系図で見ていきましょう。

高宗をめぐる血縁関係

血筋的には、仁祖(インジョ)まで遡りますが、とりあえずは、哲宗との関係で見ると比較的近いことがわかりますね。

哲宗の時代は、安東金氏の全盛期。半世紀以上にわたって、権力を独占している状況でした。自分たちの脅威になる者は、どんな手を使ってでも排除することをいとわない安東金氏の目を欺くために、興宣君は、緻密な作戦を練りました。わざとゴロツキと付き合ったり、安東金氏一門の屋敷をめぐりながら物乞いをしたりと、とにかく「つまらない人物」であることをアピールして護身を図ります。そうして、哲宗の死期が迫ることを知ると、憲宗の母神貞(シンジョン)王后と手を結び、自分の次男を王位につけようと動き出しました。神貞王后は、豊壌趙氏の出身。安東金氏の独裁体制を打破したいと考えていましたので、興宣君の提案に応じます。

哲宗が亡くなると、神貞王后はただちに興宣君の次男を、夫である孝明(ヒョミョン)世子の養子にして、哲宗の後を継がせ、自分が垂簾聴政を行いました。こうして11歳で即位したのが高宗(コジョン)です。高宗の即位により、興宣君は、興宣大院(フンソンデウォン)君に封じられ、摂政の大権を握ります。

こうしてその後約10年間にわたって権力を掌握し続け、自分の思うままに政治をすすめていきます。特に大院君は、徹底した鎖国・攘夷(外国勢力を打ち払うこと)政策をとります。また、王の威信を回復させるために、景福宮の再建にも着手します。現在、ソウルの観光名所ともなっている景福宮は、大院君が再建したものです。

列強の進出と朝鮮の苦難

江華島事件を機に開国へ

高宗は、20歳になり成人したとして、大院君に親政を願い出ます。これには、高宗妃の閔氏が大臣や儒者を先頭に大院君の下野を求めて攻勢をかけたという背景があります。高宗は、庶務を自ら決裁することを宣言して統治権を掌握し、大院君はこれにより政治の第一線から退くこととなりました。高宗の親政が始まると、政権は王妃閔氏の親族たちが掌握します。彼らは、大院君の強硬な鎖国政策とは異なり、対外開放政策をとりました。国内では、一部で対外開放を求める世論の高まりがあったことと、江華島事件など日本の武力による圧力があったためです。これによって、朝鮮は日本と「日朝修好条規(朝日修好条約)」を結び、その結果、済物浦(チェムルポ 現在の仁川)港が開かれ、さらにほか2港も開港させられます。

日本との修好後、高宗は、アメリカ、フランス、ロシアなどの欧米列強とも条約・通商関係を結ぶ政策を実施します。こうした一連の開化政策とともに、官制と軍制を改革して、開化派の若い人材を日本へ派遣し、新しい文物を学ばせました。

しかし、開港以後、急激に日本の政治や経済が浸透してくると、国内では開化派と守旧派との対立が次第に深刻なものになっていきました。両者の軋轢はエスカレートし、謀反や政変などがしばしば起きるまでになります。これによって、王権は大きく失墜。それだけでなく、こうした状況に乗じて、日本と清との内政干渉が激しくなっていったのです。

はてな

江華島事件:1875年(明治8年)9月20日に、江華島付近において、日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件。日本の軍艦の示威行為に対して、朝鮮軍が自国領土への不法侵入を理由に発砲、これが発端となって武力衝突が起きる。朝鮮では、「雲揚号事件」という。

日清戦争

こうした混乱のツケは、すべて民衆に向けられました。そしてついに民衆の不満が爆発、1894年、「甲午農民戦争(東学党の乱とも。韓国では、東学革命)」という官軍と農民との全面戦争という内乱に発展してしまいます。

高宗と閔氏勢力は清に援軍を要請し、清はこれに応じてきます。ところが、その動きに対して、条約を口実にして今度は日本も軍を動員します。とりあえず、外国勢力が介入したことで、農民軍と官軍は和議に至りました。しかし、朝鮮に進駐した清と日本は互いに撤退せず、緊張を高めていきました。日本は、清に対してともに朝鮮の内政改革を行うことを提案しますが、清はこれを拒否。すると日本は単独で朝鮮の内政改革を断行、朝鮮に駐屯していた清軍を攻撃して勝利すると、清に宣戦布告します。これが日清戦争です。この戦争は、わずか2カ月で欧米列強の支持を得た日本の勝利に終わります。

閔氏暗殺

日清戦争で勝利した日本は、朝鮮に対する内政干渉をさらに強化していきます。

ここでちょっと学校で習った歴史の復習です。日清戦争に勝利したことにより日本は、遼東半島を得ましたが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉を受けましたよね。朝鮮は、この状況を利用して、排日親露政策を実施、日本軍を朝鮮から追い払おうとしました。これに危機感をもった日本は、対露関係を主導していた明成(ミョンソン)皇后(閔妃)を暗殺し、親日勢力に朝廷を掌握させようとします。しかし、この事件は国際社会の指弾をうけ、日本はこの事件を謝罪し形式的な真相調査をせざるを得ない状況に陥ります。

大韓帝国樹立と日本の保護国化

大韓帝国皇帝になる

閔氏暗殺事件(韓国では、乙未事変)後、身の危険を感じた高宗は、日本軍と親日勢力のスキをついてひそかにロシアと内通し、ロシア領事館に避難します。高宗は、そこで親露政権を樹立して日本に対抗しようとしますが、今度はロシアをはじめとした列強に多くの利権が渡されるなど、国家の威信は失墜してしまいました。国権の侵害がひどくなるにつれて、国民は高宗の宮殿への帰還と朝鮮の自主独立を広く知らしめるよう要求しました。これにより、高宗は、1年ぶりに宮殿へ戻り、国号を「大韓帝国」と改め皇帝となり、年号を「光武」としました。

ハーグ密使事件

その一方。

日露戦争の勝利を経て、国際社会での発言権を増した日本は、大韓帝国を保護国化する方針を固めていました。これに基づいて、日本は列強から韓国の保護国化に対する承認を取り付けます。日本は、1905年、アメリカと「桂・タフト協定」、イギリスと「第二回日英同盟」を結んで、アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配を承認することと引き換えに、韓国の保護国化を承認させたのです。さらに、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)で、ロシアも日本の韓国保護国化を認めます。

1905年11月、伊藤博文は皇帝高宗に謁見して、保護条約の調印を迫りました。これを、第二次日韓協約(「乙巳保護条約」)といいます。この条約により、漢城に日本政府の代表者として統監府が設置され、初代統監に伊藤博文が着任しました。高宗は、日本のこうした行為を列強諸国に訴えようとします(ハーグ密使事件)が、すでに日本の保護国化を承認しているわけですから、聞いてもらえるはずがありません。日本は高宗のこの行為を口実に退位を迫り、皇太子に譲位させると、韓国の内政を完全に掌握します。こうした高宗の在位期間中の歴史が、現在の日韓の歴史認識問題に禍根を残すこととなるのは周知のとおりです。

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