中宗の息子である明宗は、とにかく母親に頭が上がらなかった王です。22年弱の治世がありながら、そのほとんどを母親に牛耳られ、母親の死後ようやく親政ができると思った矢先、あっけなく亡くなってしまいます。
母親と親戚に振り回された王 明宗
仁宗が亡くなり、11歳の慶源(キョンウォン)大君が即位します。学問を好む聡明な人物だったといわれていますが、母親の文定王后の横暴と、叔父たちの専横に阻まれて、相当辛い在位期間だったようです。
明宗は、即位当時11歳だったため、8年間は母親が代わりに政治を行いました。韓ドラ時代劇でよく見る、「垂簾聴政」です。王とはもちろん形だけ、座っているだけの人形にすぎませんので、文定王后が強大な権力を振るい、それを支持したのが叔父らの外戚たち。そのため王の権威は失墜、やがて成人した明宗自身が親政を行うようになっても、わがままな母親には逆らえず、じっと我慢するしかなかったようです。
キツネを追い出すために虎を呼ぶ
明宗時代、専横の限りを尽くしたのが母方の叔父尹元衡(ユン ウォニョン)。さまざまな罪をでっち上げては政敵を陥れ、次々と邪魔者を排除していった尹元衡には、向かうところ敵なし。さすがに、このままではまずいと、成人して親政をはじめた明宗も対策に乗り出しました。
明宗は、正妃である仁順(インスン)王后・沈氏の母方の叔父である李樑(イリャン)を重用し、尹元衡に対抗させようとします。韓ドラだと、こういう場合は、たいてい品行方正で慈悲深い聡明な人物、のはずなんですが、現実はそんなに甘くはありません。この李樑も、相当強欲な人間だったようです。勢力を伸ばすために尽力し、さらに蓄財にも励みましたので、当然彼のところにもワイロが集まります。
尹元衡と李樑、ここに沈通源(シムトンウォン)という人物を加えて、当時の朝鮮の人たちは彼らを「朝鮮の三凶」と呼んだのだとか。明宗にしてみれば、キツネを追い出そうとして虎や狼を育ててしまったようなもの。まさに、orzっていう感じですね。
母親から解放されてすぐ崩御の短い人生
文定王后が亡くなると、尹元衡も失脚します。彼らが政治の世界から消えると、明宗は、人材を適切に用いて善政をしきました。ようやく、彼の為政者としての才能が活かされるときが来たのです。朝廷も安定し、社会も秩序をとりもどしていきました。
ところが。運命の女神は最後まで明宗には過酷でした。文定王后の死後、わずか2年後に明宗も33歳で亡くなってしまうのです。文定王后の垂簾聴政のあと、母親の横暴や外戚の専横がなかったならば、歴代でも名君と呼ばれる聡明な王様になっていたかもしれません。
明宗には、仁順王后との間に王子が一人ありましたが、夭折してしまい後嗣を残すことができませんでした。このため、王位は中宗の九男・徳興君(トクングン)の三男であった河城君(ハソングン)が、仁順王后の養子になることによって、継承することとなります。これが第14代王宣祖です。