朝鮮王朝の王様たち

宣祖(ソンジョ) 第14代王

ドロドロした権力の争奪戦が繰り広げられた中宗後の時代。結局、嫡流の王位継承は明宗の死によって途絶えました。これによって、傍系の王子でも王位を継承することができる時代に入っていきます。

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朋党政治の始まり

棚から大きなボタモチが降ってきた!

明宗(ミョンジョン)は、仁順(インスン)王后沈(シン)氏との間に王子をもうけました。彼の子供はこの王子だけでしたが、12歳で死んでしまいます。それ以後は、彼女との間にもまた後宮の間にも子供には恵まれませんでした。

明宗は、生前から弟である徳興(トクングン)君の息子たちを可愛がっていました。特に三男の河城(ハソン)君を愛し、宮殿にもしばしば呼んでいたそうです。そこで明宗が亡くなると、仁順王后は宗室の推挙も得て河城君を養子にし、即位させました。これが第14代王宣祖です。

これにより、王統の継承は嫡流(王后腹の王子)以外にも道を開くこととなりました。

東西南北、いろんな人がいます

さて、韓国ドラマ時代劇では、おなじみの党派争い。宣祖の時代は、それまで朝廷を牛耳っていた功臣や外戚の力が弱まり、かわって士林が力をつけてきます。そして、今度は士林同士の対立が激しくなってくる、という事態に陥るのです。このような政治を朋党政治と呼びます。

まず、文名の高い金孝元(キム ヒョウォン)と、仁順王后の弟沈義謙(シム ウィギヨム)が対立し、それぞれを支持する士林たちが東人(トンイン)と、西人(ソイン)とに分かれて党派争いを始めるようになりました。やがて、世子冊封問題で西人が失脚し、東人が勢いを得るようになります。東人は執拗に西人の粛清を強行しますが、その過程で、今度は過激派(北人 プギン)と穏健派(南人 ナミン)とに分裂してしまうのです。

中央政府がこのように分裂して争っているような状態ですから、当然のことながら朝廷は不安定になり、国力も落ちていきます。さらには、辺境の女真族もしばしば侵攻してくるようになりました。

後世に禍根を残した事件

豊臣秀吉の朝鮮出兵を事前に察知した人がいた

1590年。倭国=日本の様子がどうもおかしい、という判断により、通信使が派遣されます。翌年帰国した正使の黄允吉(ファン ユンギル)と、副使の金誠一(キム ソンイル)とは、互いに正反対の報告をしました。

正使の黄允吉

日本は戦国時代で、最新の軍備も整っている。侵略に備えなければならない。

副使の金誠一

豊臣秀吉はつまらない人物だ。戦争に備える必要はなく、かえってそんなことをすれば国内が混乱する。

農民という下層身分から這い上がり、天下をとった豊臣秀吉。それを「つまらない人物」と評価するかなあ、という気もしますが。

単なる状況分析の食い違いなのですから、みんなで協力して危機管理すればよかっただけの話。ですが、これが人間関係に飛び火してしまいます。つまり、意見の対立が東人と西人との政治的対決に発展してしまったのです。

こういうことって、現代でもよくある話ですよね。意見が食い違ってしまったために、人間関係も気まずくなってしまうというやつ。

それはさておき、結局、数の上で優勢だった東人派の金誠一の意見が受け入れられてしまいます。他国が攻めてくるかもしれないという危機を想定するよりも、自分の国は大丈夫だろうと考えてるほうが気分的にも楽ですからね。

しかし、実際には1592年4月、韓国の人たちに今でも恨まれている豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)が勃発するのです。

壬辰倭乱(イムジンウェラン)と丁酉再乱(チョンユジェラン)

「壬辰倭乱(イムジンウェラン)」と「丁酉再乱(チョンユジェラン)」が、朝鮮史での名称です。その顛末について、朝鮮史の側から簡単に解説しましょう。

まず、このとき朝鮮半島にわたってきた兵はおよそ20万。それまでの200年ほどの間、部分的に異民族の侵入などがあったことを除けば、朝鮮に大きな戦争はありませんでした。そのため朝鮮半島全域において戦争に対する備えがない国だったともいえます。政治的な関心はもっぱら、士林たちによる朋党間の争いにあり、国防に対しては関心がないという状況だったわけです。ですから、黄允吉と金誠一の見解を冷静に吟味する、ということができませんでした。しかし、倭館(日本人の朝鮮での貿易などの拠点)の日本人たちが次々と帰国し、倭館がからっぽになったとき、ようやく「これはもしかすると……」と慌て始めます。しかし、時すでに遅し。

1592年4月13日、釜山浦(プサンポ)が陥落します。日本軍は、4月29日には忠清南道(チュンチョンナムド)忠州(チュンジュ)を、さらに5月2日は、都の漢陽(ハニャン)を陥落させるというすさまじい勢いで進軍してきました。以後、開城(ケソン)、平壌(ピョンヤン)などの都市も次々と陥落し、宣祖は明との国境にある義州まで避難せざるを得なくなります。

王が民と都を捨てて真っ先に逃げた。

民衆の失望と怒りのなか、逃避行を続けなければならなかった宣祖。後世は、「柔軟で優柔不断な王」という評価を下します。

そんな状況にもかかわらず、民衆たちは日本軍に頑強に抵抗します。そんな中から、英雄李舜臣(イ スンシン)が登場します。彼の活躍と、各地での義兵の蜂起、そして明の援軍に助けられて、日本軍への反撃が始まりました。やがて、日本軍は南へ後退、約1年ぶりに都を奪還します。この後、しばらくは休戦のような状態が続きますが、明と日本との講和が決裂すると1597年、再び日本軍が上陸します。これが、「丁酉再乱(チョンユジェラン)」です。しかし、これはご存知のように、豊臣秀吉の死によって終わりを告げます。

この戦乱によって、多くの人命が失われましたが、景福宮などの宮殿をはじめ、さまざまな建物や美術工芸品、書物など、たくさんの貴重な文化財も、焼失してしまいました。さらに、日本へ多くの技術や知識をもった人たちが、拉致されていきました。しかし彼らは、日本で新しい文化の種をまくこととなるのです。

宣祖は、戦乱の後始末をすることもできないまま、1608年に56歳の生涯を閉じました。

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