朝鮮王朝の王様たち

仁宗(インジョン) 第12代王

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仁宗の在位はわずか9か月

仁宗は、中宗章敬王后の長男として生まれました。5歳で世子に冊封され、24年間も世子として過ごしましたが、即位後わずか9か月に満たずして亡くなりました。歴代の王の中でも、最も在位期間の短い王です。

孝行心に篤い人物として知られ、兄弟愛も深かったといいます。同母の姉孝恵公主が病死した時には、悲しみのあまり病気になってしまいました。また、中宗が病気になると、世子であった仁宗は、自ら毒味をし、寒風吹きすさぶなか斎戒沐浴して父王の回復を祈りました。それにもかかわらず、中宗が亡くなると、6日間飲食を絶ち、泣き声が5か月間やまなかったそうです。

仁宗のこれって、親孝行なの?という疑問

彼はわずか3歳で文字を読んだ秀才で、7歳で成均館に入ったのだとか。7歳といえば今なら小学校に入学する年齢です。つまり、小中高すべてをすっ飛ばして、いきなり大学に入学したようなもの。多少の眉唾はあったとしても、相当優秀であったことは確かなようですね。

生母の章敬王后は、彼を産んで6日目に亡くなってしまいましたので、彼はそのあとに王妃となった文定王后・尹氏のもとで育てられました。ところが、文定王后にも男子(のちの明宗)が生まれると、彼は継母からたびたび命を狙われるようになったといいます。もちろん『朝鮮王朝実録』にはない話ですが、文定王后の性格を考えればさもありなん、という気がしてきます。

例えば、こんな有名なエピソードがあります。仁宗が世子だったころ、彼と嬪宮が寝ているときに、東宮殿が火事になりました。しかし、彼は嬪宮を起こして先に逃がし、あろうことか自分はそのまま焼け死のうとしたそうです。これは、放火したのが文定王后だと知っていたからでした。なんと、「文定王后が自分の死を臨むのであれば、たとえ継母でも、母である以上、自分が死ぬのが子としての道理だ」と言ったといいます。

いくらなんでも、そんな馬鹿な。と呆れてしまいますけどね。

ただ、この時は父王である中宗が、必至に外から彼を呼んだのだそうです。それで今度は、「自分が死ぬのは文定王后にとっては孝行になるが、中宗には親不孝になり、不忠にあたる」と言って逃げ出してきたのだとか。

最初にこの話を知った時には、バカなのか利口なのかわからん人だな、と突っ込んでしまいました。

この火事は、誰かがネズミの尻尾に火をつけて東宮殿に放ったために起きた放火事件だったといいます(その放火方法もどうかと思うけど)。ちなみに仁宗は子年の生まれです。そのあたり、文定王后の意地の悪さが引き立つエピソードですね。

結局、文定王后に親孝行をしたい仁宗も固く口を閉ざし、中宗も優柔不断で決断できず、この事件はうやむやになって終わりました。

仁宗は、やっぱり文定王后に殺された?

「仁宗は文定王后に殺された」とは、さすがに『朝鮮王朝実録』には記録されていません。もしかしたら、噂だけが独り歩きして、歴史に残ってしまったのかもしれませんが、それでも人々がそれだけの噂をするという理由はあったのでしょう。

ある日、仁宗が文定王后のところにご機嫌うかがいに行くと、めずらしく文定王后は笑顔で優しく彼を迎え入れました。そして、仁宗に餅を差し出します。自分が憎まれるのは自分の孝行が足りないせいと嘆き、罪の意識すら持っていたという仁宗にとって、継母の見せる笑顔は何よりうれしかったのかもしれません。仁宗は、その餅を食べます。ところが、その後、仁宗は急に体調を崩しそのまま亡くなってしまいました。

「犯人は文定王后だ!」

というのが話の筋ですが、こんなアリアリの手を使うわけはないでしょうから、これは文定王后の人格を脚色するために作られたエピソードなのかもしれません。

仁宗は、文定王后の息子、異母弟の慶源(キョンウォン)大君に位を譲るために、自らは子どもを設けなかったという話もあります。真偽のほどは不明ですが、事実、彼には後嗣がなかったため、文定王后の望み通り慶源大君が、第13代王明宗として即位します。

仁宗の人となりは、親孝行で寛大、さらに禁欲的な生活を送るなど理想的なソンビの姿であったため、当時の人々は彼を「聖君」と呼んだのだそうです。でも、幸せだったのかなあと思わずにはいられませんね。

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