成宗(ソンジョン)の時代は、太祖(テジョ)以来の王朝体制が安定し、民衆も平和な世を謳歌することができました。成宗の「成」の字は、そうした王朝体制を「完成」させたという意味の「成」なのだそうですよ。
電光石火で即位した王
次男坊にお鉢が回ってきたわけ
第8代王の睿宗(イエジョン)は、在位わずか1年2か月で夭逝してしまいました。このとき、王位を継承する順位として考えられたのは、まず睿宗の息子である斉安(チンアン)大君。しかし、このときまだわずかに3歳で、あまりにも幼すぎました。幼王端宗(タンジョン)が、世祖に王位を奪われたことを考えると王権の安定化のためにも、斉安大君の即位にはリスクがありすぎました。そこで、次に候補に上るのが、睿宗の兄、夭逝した懿敬(ウィギョン)世子の長男月山(ウォルサン)君でした。睿宗の垂簾聴政を行い、権力も握っていた世祖(セジョ)の正妃貞熹(チョンヒ)王后にとっても、直径の孫ですから問題はありません。年齢も15歳ですので、貞熹王后が再び垂簾聴政を行うことができます。
ところが、これに異議を唱えたのが癸酉靖難(ケユジョンナン)の功臣、韓明澮(ハン ミョンフェ)です。彼は、この時代の最高権力者でしたが、娘を月山君の弟者乙山(チャウォルサン)君に嫁がせていました。つまり、韓明澮にとっては縁のない月山君よりも、娘婿である者乙山君のほうが都合がよかったわけです。貞熹王后にとっても、垂簾聴政で王権を握ることができることに変わりはありません。
こうして貞熹王后と韓明澮の政治的決断によって、者乙山君が王位継承者として選ばれ、二人は睿宗の死後、間髪を入れず者乙山君を即位させてしまいます。成宗(ソンジョン)は、このとき12歳。端宗とあまり変わらない年齢での即位となりますが、今回は豪胆な祖母の強力な垂簾聴政と、義父の朝廷での後見がありました。
王族が政治には関われなくなる
貞熹王后と韓明澮は、幼い端宗から王位を簒奪した世祖を支えてきた人間です。ですから、有能な王族が王位を脅かすという行為を誰よりも恐れていたといえるでしょう。幼い成宗の脅威になる王族は、排除しておく必要がありました。
そこで、第一のターゲットとなったのが、世宗(セジョン)の孫にあたる亀城(クソン)君でした。文武を兼ね備えた優れた人物で、世祖にも寵愛され、領事政として政治にもかかわっていました。ですから、成宗が即位したときに、貞熹王后と韓明澮がもっとも脅威に感じていた人物といえるでしょう。そんな状況を敏感に察知した大臣らは、二人に忖度し、亀城君を弾劾し始めます。そして成宗が即位して間もなく、彼は配流となってしまったのです。
さらに、本人たちの意思にかかわらず、月山君と斉安大君も、成宗の即位には不満を持っても不思議ではない状況下にあります。特に、睿宗の王子として後継者と目されていた斉安大君は、いつ殺されるかわからない立場にありました。彼は、詩歌を好み音楽にも長け、風流人を装ってしばしば愚かしいふりもしながら、保身に努め天寿を全うしたといいます。
そして亀城君の事件以後、王族の官僚への登用が法で禁止されます。『経国大典』が完成後、この法が定着しました。こうして、それまでの王族を重く用いて大臣らの権勢を抑えるという方針は終わりをつげ、朝鮮王朝は、大臣らが政治を主導するという状況に入っていきます。この後は、権力をもった臣下らが、党派を組んで争う時代へと突入していくのです。
成宗の政治と廃妃尹(ユン)氏
儒教思想を定着させた成宗
即位後7年、祖母貞熹王后の垂簾聴政が築いた王権の基盤を引き継ぎ、成宗は親政を始めます。彼の朝廷では、韓明澮ら世祖の功臣とされる一派(勲旧派)が権勢を誇っていました。これに対抗するために、成宗は士林(サリム)勢力を引き入れます。士林とは、地方出身の儒学者たちのことです。
成宗は、仏教を弾圧する一方で儒学(性理学)の発展を強力に推し進めました。その過程で、高麗王朝末期の鄭夢周(チョン モンジュ)らの学問を受け継ぐ士林勢力を大々的に登用して、勲旧勢力をけん制していきます。世祖時代からの功臣が主軸となった勲旧派は、政治の一線から徐々に後退していくこととなります。成宗は、このようにしてうまく勢力均衡を図ることで、王権を安定させ、朝鮮王朝中期以後の士林政治の基礎を築いたのです。
女性関係ではあんまり感心しない成宗
政治的な実績は高く評価される成宗ですが、女性関係では醜聞も残っています。
まず、有名なところで廃妃尹(ユン)氏ですね。韓国ドラマ時代劇にもしばしば登場しますので、「あ~、あの人ね」という記憶もあるかもしれません。彼女は、王后でしたが大変嫉妬深い性格で、後宮たちを毒殺するためにヒ素を持っていたともいわれています。そんな彼女が、成宗の顔をひっかいて傷を負わせてしまうという事件が起きました。普通の夫婦喧嘩なら、ありがちな話かもしれませんが、相手は王です。これに激怒したのが、当の本人成宗ではなく、生母の仁粹(インス)大妃です。つまり尹氏にとっては、お姑さん。実は、仁粹大妃も貞熹王后に負けず劣らずの女傑だったようで、女性が修めるべき心得を記した『内訓(ネフン)』も執筆していました。バリバリの家父長制の中での女性観ですから、内容は推して知るべし。そんな本を書いてしまうお姑さんからすれば、嫉妬深く挙句の果ては夫の顔をひっかくなどという嫁は、言語道断だったわけです。仁粹大妃に完全に嫌われた尹氏は、結局廃され、のち成宗から賜薬を下されて無念の死を遂げることになりました。
もう一人、実録にはないお話ですが、於于同(オウドン)という女性との醜聞があります。彼女は、両家の子女で王族の妻でありながら、行動が乱れて(どんな乱れ方だったんでしょうねえ)社会に大きな物議をかもしたという罪で死刑になった人物です。実は、成宗はしばしばお忍びで宮殿を抜け出し、遊興にふけったといわれます。その時に、彼女とも関係をもったのでしょう。
気の強い奥さんをもった腹いせなのか、女傑といわれる祖母や母に頭を押さえつけられて育ったからなのか、成宗の女性関係がのちの世に大迷惑をかけることを考えると、政治的な実績がありながらもちょっと残念な王様に見えてきますね。