朝鮮王朝の王様たち

世宗(セジョン) 第4代王

朝鮮王朝で一番人気のある王様であり名君と称えられるのが、第4代王、世宗(セジョン)です。太宗(テジョン)のあとを継いだ世宗は、最も優れた儒教政治を行い、朝鮮独自の民族文化を開花させたといわれています。世宗の治世は、後代の王の模範ともなりました。

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実は三男坊

長兄の護寧(ヤンニョン)大君

世宗には、兄が二人いました。

長兄の護寧大君は、10歳の時に世子に冊封されました。しかし、自由奔放な性格で、しばしば問題行動も起こしていたようです。そのために父である太宗の怒りを買い、ついには廃位されてしまいます。彼自身が窮屈な宮廷生活を嫌がり、世子の座を拒否するためにわざとそのような行動をとった、弟(忠寧大君)の優れた性質を見抜いて、王位を譲るために廃位されるような行動をとった、などともいわれますが、実際のところはわかりません。

世宗が即位した後も、しばしば大臣らからの弾劾をうけることもありましたが、兄弟愛は深く、世宗は決してそうした訴えには耳を貸しませんでした。そのため68歳の天寿を全うすることができました。

次兄の孝寧(ヒョリョン)大君

長男が座を譲ったのですから、普通に考えればお鉢が回ってくるのは次男坊孝寧大君のはずです。しかし、父親の太宗の意思が弟の忠寧大君にあることを知った彼は、出家してしまいました。彼は、もともと柔和な性格で権力にも関心がなく、親孝行で愛情深かったといいます。そのため、世宗ののち、文宗端宗世祖睿宗成宗と6代の王の時代を生き、90歳の天寿を全うするまで、王室の重鎮として多大の尊敬と厚い待遇をうけました。般若心経などをハングルに翻訳するなど、仏教の発展にも力を尽くしましたが、儒生からは厳しく非難されることもありました。

稀代の名君 その実績

とにかくよく働いた王様

一部の重臣たちの反対があったものの、太宗はそれを押し切り、長男の護寧大君を廃嫡して三男の忠寧大君を世子に冊封しました。そしてその2か月後には譲位してしまいます。世宗は、太宗が強化した王権をもとに、その後の朝鮮の社会や文化の基礎を確立させていきます。

まず、集賢殿(チピョンジョン)を通じて多くの人材を輩出したことにより、政治の基盤となる儀礼制度が整備され、また膨大な編纂事業も成し遂げられていきます。これが、のちのちの文化の発展の原動力となっていきました。ハングルの創製と普及はもとより、科学技術や国土の拡張などなど、彼の多方面にわたる実績は驚異的ともいえるでしょう。

政治制度の変革

太宗は王権を強化するために、六曹直啓制(ユクチョチクケジェ)という制度を敷きました。これは、王が政治に直接関与する機会が多いので、大臣たちの権勢を抑制することができますが、反面、王が携わる仕事量も膨大なものになります。健康不安もあった世宗にとって、これは大きな負担でした。世宗は、これを「議政府署事制(ウィジョンブソサジェ)」という制度に変革します。この制度は、議政府の三議政が六曹からの報告を共同で議決し、それを王に上げるという制度です。簡単に言ってしまうと、何でもかんでも王様が決定するのではなく、ある程度のことは大臣たちで話し合って決めて、それを報告するように、という制度に変わったわけです。こうした変革ができたのは、集賢殿から多くの有能な人材を輩出できるようになったからです。つまり、王様と大臣たちとの権力のバランスが良好で、お互いに理想的な儒教政治を行おうと努力したことにより、安定した政治を行うことができたわけです。

科学技術の興隆

文化の発展に寄与したのは、集賢殿です。学術研究機関のようなところで、優れた人材がたくさん集まり、また養成されていきました。所属する学者たちは、研究に専念できるようさまざまな特権が与えられていました。ハングルへの翻訳作業や、大衆への普及、また実用書や歴史や地理、法律、文学などなど、多方面で成果を上げていきます。こうした学問的な成果は、科学技術の発展にも影響を及ぼし、天文学や火器の開発、城の修築など、国防の面にも発展していきました。奴婢であるにもかかわらず世宗によって登用された蒋英実(チャンヨンシル)など、後世に名の残る逸材も多く現れました。

経済の安定と堅固な国防力

世相の時代は、朝鮮王朝の長い歴史の中でも最も安定して国が栄えた時期でした。こうした繁栄を可能にしたのは、経済的な安定があったからです。この時代の経済の基本は農業。世宗の時代には、『農事直節』などの農業の実用書が編纂されました。穀物に必要な水利、気象や地勢などの環境条件など、どんな状況でどんな穀物を育てればよいかをわかるようにしたことにより、農業が発展していくこととなりました。『農事直説』は、のちに日本にも伝えられています。

世宗は、さらに沿岸や国境の防衛にも力を注ぎました。1419年、倭寇討伐を目的として、対馬を攻撃する事件(日本史では「応永の外寇」といいます)なども起きますが、その後は対馬と朝鮮の通交関係の回復もなされました。また、北方の女真族の侵攻を防ぐために豆満江周辺に6つの城を開拓して、北の境界線を確定させます。

ハングルの創製

ハングルは、「訓民正音(フンミンジョンウム)」というのが、正式な名称です。誰がどのようにして作ったのかという議論にはまだ決着がついていないといわれますが、現在のところ世宗が一人で創ったものというのが定説のようです。徹底して秘密裏に進められていたプロジェクトだったといわれています。

というのも、事大主義をとる朝鮮では中国の文字「漢字」を使用することこそが、文明人であるあかしです。それにもかかわらず、自分たち独自の文字を持つなどということは、蛮行以外の何物でもないと考える臣下は多かったのですね。また、学者(ソンビ)たちは、漢字を使いこなせることこそが、自分たちの権威の象徴であるとも思っていました。庶民や賤民たちとの明確な違いは、文字を知っていることであり、そこに愚かな民たちと自分は違うという自負があったのです。ですから、庶民たちが文字を使いこなすなんてことは、考えただけでもおぞましい……というわけです。

しかし世宗は、民衆が文字を知らないことによって不利益を被ることを嘆き、また、朝鮮独自の言葉を記録し民族としてのアイデンティティを確立させることを目指して、文字の創製に果敢に挑戦していきます。日本の仮名などをはじめ周辺諸国の文字の研究に始まり、学ぶ時間などない庶民でも覚えやすく、朝鮮の言葉をそのまま表現できる文字を文字通りゼロから創り出す、という恐ろしくハードルの高いことをやってのけたわけです。そして、周囲の反対を押し切って公表、王子たちにもさまざまな書物のハングル訳をさせるなど、その普及にも努めました。

あの大通りのど真ん中に、でーんと座っているだけのことはやった王様なんですね。

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