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韓国時代劇の王様たちとその時代

顕宗(ヒョンジョン) 第18代王

顕宗(ヒョンジョン)は、壬辰倭乱や、丙子胡乱などの動乱の時代からようやく立ち直り始めた時代を生きた王です。比較的平和な時代でしたが、そのぶん、西人と南人とのし烈な政争が繰り広げられました。

儒学者にひっかきまわされた顕宗

超カンタンに儒教のはなし

あらためて述べるまでもありませんが、朝鮮王朝の政治の基盤は「儒教」です。儒教は、今から2500年ほど前、中国の孔子が唱え広めた思想です。本家中国はもとより、朝鮮や日本など東アジアの国々に大きな影響を与えてきました。いまの私たち日本人の生活にも、儒教の思想は生きていますし、中学校や高校では必ず孔子の言葉を集めたといわれる『論語』を学びますよね。「子、曰く……」というアレです。

この儒教で最も大切な概念が「礼」です。礼といっても「起立、礼、着席」のことではなく、もう少し人間関係に踏み込んだ概念です。ざっくりいうと、人に対しては礼節をもって接しなさい、ということになるかと思います。相手(特に目上の人)を尊重しろ、ということですね。もちろん、日本人でこれに対して異を唱える人というのは、まずいないと思われます。そもそも、「起立、礼、着席」そのものが、儒教の教えだといってもいいでしょう。

ここでポイントとなるのが、序列です。どっちが先に「礼」をつくすべきかは、人間関係のランキングによって決まります。たとえば、生徒は先生に対して礼をつくすべきですし、子は親に対して礼をつくす、といった感じですね。一番簡単で間違いのないランキングは、「年齢」です。これを「長幼の序」といいます。お年寄りには礼を持って接する、程度の差こそあれ日本も韓国もこの価値観は同じですし、お兄さん(오빠・형)、お姉さん(언니・누나)のように、年齢で呼び分ける文化も共通していますね。

このように、儒教では礼を重んじ、親子関係や家族関係の序列を大切にすべきだと考えます。

小人閑居して不善をなす、ともいう。

さて、この儒教。国ごとにさまざまな学派があります。仏教に、さまざまな宗派があるのと同じようなものです。朝鮮王朝では、儒教を基にして政治が行われていましたので、この学派の違いがしばしば政争にまで発展することがありました。その典型的な例が、顕宗の時代に起きた「礼論(イェロン)政争」です。

顕宗の時代に入ると、それまでの社会混乱もようやく落ち着きを見せ始めます。外からの侵略もなく、また内政的にも安定を取り戻していたので、比較的平和な時代であったといえるでしょう。ところが、平和だった分、学者たちが自分たちの主張をめぐって論争を始めます。顕宗は、在位中、それにずっと振り回され続けました。

いつの時代も、ヒマになるとわけわかんないこと始める人はいるということなのかもしれません。

礼論政争とは

超カンタンに礼論政争のはなし

顕宗の朝廷は、祖父である仁祖(インジョ)のクーデター(仁祖反正)で功をたてて政権を握った西人勢力と、仁祖の中立政策によって起用された南人勢力とに二分されていました。

西人は「主記論」を、南人は「主理論」を主張して激しく対立していました。詳しく話をしていると、このページから離脱されること間違いなしなので、ポイントだけ解説しますと、

西人の主張「主記論」

政治は現実問題を重視すべきだ

南人の主張「主理論」

内面を重視し、道徳的な実践を進めるべきだ

となります。あんまりにも簡潔すぎてよけいにわけわかんなくなりそうですが、とにかく意見が食い違っている(そもそもかみ合ってるのか?という気もする)ので両者は対立していたわけです。

最初は、こうした学問的な対立だったのですが、それが政争にまで発展してしまったのが「礼論政争」です。

もうちょっと詳しく礼論のはなし

顕宗は、父王孝宗(ヒョジョン)の逝去後に即位した王です。ということは、まずお父さんのお葬式をしなければならなかったということになります。そこで、大問題になったのが慈懿(チャウィ)大妃仁祖の継室・荘烈(チャンニョル)王后)の立場の解釈です。彼女の喪に服す期間をめぐって、南人と西人とが対立しました。これが、「礼論政争」です。

早い話、彼女の「喪中はいつまでか」が、政治の争いに発展したわけですね。現代の私たちには、かなりミラクルなお話ですが、当時の人たちは大真面目。

系図をみてみましょう。問題は、彼女にとっての孝宗がどういう立場になるのかということでした。

西人の主張

大妃の次男として1年間の喪に服すべきだ

南人の主張

次男とはいえ王位に就いたのだから、大妃の長男として3年間の喪に服すべきだ

これが、やがて感情的な対立にまで発展し、さらに地方にまで波及してしまいます。このとき、顕宗は西人の「1年間」の説を採択しますが、南人の反発は相当激しかったため、この話を蒸し返した者は厳罰に処すという厳しい命令を下さざるを得ないほどでした。これにより、南人の勢力は大きく削がれてしまいました。

ところが。

今度は、孝宗の妃である仁宣(インソン)王后が亡くなります。このときも、

西人の主張

大妃の次男の妃として9カ月間の喪に服すべきだ

南人の主張

次男の妃だが、王后だったのだから1年間の喪に服すべきだ

という対立が起きます。顕宗は、このとき義父の意見を尊重して南人派の意見を採択します。もちろん、これでは整合性がとれません。前回の孝宗のときの礼論問題の修正も避けられないこととなりました。この結果、今度は西人派が失脚します。

この問題、実は顕宗の死後にまで尾を引き、さらには粛宗(スクチョン)の時代に実権を握った西人派が、『顕宗実録』を改修するまでに発展していきます。

このように、顕宗はずっと礼論政争に悩まされてきました。その一方でこの時代は、社会的な礼節も強調されるようになり、同姓婚なども禁止(例えば、金さんと金さんは結婚できない)されるようになっていきます。

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