朝鮮王朝の王様たち

粛宗(スクチョン) 第19代王

朝鮮王朝の歴史の中でも、党派間の争いが最も激しかったのが粛宗(スクチョン)の時代です。しかし、非凡な政治能力を発揮して王権を強化し、社会を安定させました。

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朋党内の対立を巧みに利用

粛宗は、「換局(ファングク)」とよばれる政権交代を巧みに行いながら、王権を強化させていきました。

粛宗は、特定の党派に過度に力が集中すると、大改編を行うことで、政局の転換を図りました。彼は、三回にわたって政権を交代させながら、朋党内の対立を利用し、一方の党派に支持を与えることでその見返りとして君主に対する忠誠を強いて王権を強化させたのです。

順番にこの「換局」を見ていきましょう。

  • 1680年「庚申(キョンシン)換局」……顕宗以後粛宗まで続いた「礼論政争」が一段落。これにより西人が政権を掌握。このとき、西人は、老論(ノロン)派と少論(ソロン)派に分かれます。
  • 1689年「己巳(キサ)換局」……世子(のちの景宗)冊封問題により、西人が失脚。南人が政権を掌握。
  • 1694年「庚戌(カプスル)換局」……仁顕(インニョン)王后の復位問題で、南人が失脚。西人の少論が政権を掌握。しかし、この一年後に起きた「巫蠱(ムゴ)の獄」以後は、老論派が少論派に対して露骨に圧迫を加えていくようになります。

このように、政治の実権を握ったかと思えば失脚し、失脚したかと思えば復活し……、という状況が繰り返されたのが粛宗の時代です。

粛宗の王妃と後宮たち

粛宗は、政治能力は高かったようですが、女性問題では治世に汚点を残してしまった王様です。

粛宗は、顕宗(ヒョンジョン)の一人息子で、6歳で世子に冊封されました。その彼に世子嬪として嫁いだのが仁敬(インギョン)王后。粛宗の即位とともに王妃に奉じられましたが、天然痘を発症し19歳の若さで亡くなってしまいます。そのあと、嫁いできたのが仁顕王后です。徳が高く、国母として民衆から愛されたといわれますが、粛宗の寵愛はあまり受けられなかったためか、子どもには恵まれませんでした。

1689年の「己巳換局」で、廃妃となり庶人に降格されますが、「庚戌換局」で復位しました。このように、粛宗の「換局」に振り回された女性だったのですね。復位後は、禧嬪(ヒビン)張(チャン)氏との対立のさなか病気で亡くなりました。

禧嬪張氏は、韓国ドラマ時代劇でも有名ですね。彼女は、順調に位をあげていき、昭儀に昇格したときに王子(のちの景宗)を生みました。その後、この王子が元子(ウォンジャ=王の長男)に定められると、禧嬪に昇格されます。王子が世子に冊封されると、策略をめぐらして仁顕王后を廃位させ、王妃になりました。しかし、「庚戌換局」で禧嬪に降格します。仁顕王后の死後、彼女が仁顕王后を呪い自分の復位を祈願していたことが発覚すると、ついに粛宗から賜薬を下されます。このとき、彼女に憤慨した粛宗は、以後は嬪が王妃に昇格することを法で禁止してしまいます。

王の目になどとまるはずがないにもかかわらず、賤婢でありながら後宮になり、王の生母にまで上り詰めるのが淑嬪(スクピン)崔(チェ)氏です。彼女は、王子を三人も生んでいます(長男と三男は、生後間もなく死亡。生き残ったのは英祖のみ)ので、粛宗の寵愛がいかに深かったのかが推し量れますね。余談ですが、崔氏が嬪に昇格したのは、第6代の端宗を復位させその慶事を祝うための意味でのものだったそうです。

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