朝鮮王朝の王様たち

仁祖(インジョ) 第16代王

光海君(クァンへグン)を、クーデターで王座から引きずり降ろしたのが、綾陽君(ヌンヤングン)です。しかし、彼はのちに「屈辱の王」と呼ばれることになります。仁祖(インジョ)とはどのような王様だったのでしょうか。

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仁祖反正(インジョパンジョン)とは

綾陽(ヌンヤン)君、歴史の表舞台に現れる

光海君(クァンへグン)は、壬辰倭乱で混乱に陥った社会と窮乏した財政を立て直すために尽力しましたが、その過程で流された血はあまりにも多すぎました。実兄の臨海(イメ)君、異母弟の永昌(ヨンチャン)大君を排除することで、王権の安泰を図った光海君でしたが、まだ王位を狙う者はたくさんいたのです。そのなかの一人が綾昌君(ヌンチャングン)です。王族の中では立場がちょっとややこしいので、系図で見てみましょう。

仁祖をめぐる血縁関係

綾昌君は、綾陽(ヌンヤン)君(のちの仁祖)の実弟です。この兄弟がどういう血筋かというと、宣祖の寵愛を受けていた仁嬪金氏を祖母に持ちます。仁嬪金氏は、宣祖にも愛されていた信城(シンソン)君を、壬辰倭乱の際、避難先の義州で病により失っています。壬辰倭乱さえなければ、王位は信城君のものだった可能性もあります。当然のことながら、光海君の即位は、彼女たちにとっては不満だったわけです。それに加えて、定遠(チョンウォン)君の息子、綾昌君は、王の資質をもっているという評判の人物でした。

光海君という王がいるにもかかわらず、「王の資質を持っている人物」なんて、王権にとって危険人物以外の何物でもありません。そこで光海君とその支持勢力である大北(テブク)派は、たまたま起きた反逆事件に関連させて、綾昌君を処刑してしまいます。

このときから、兄の綾陽君と、大北派から弾圧されてきた西人(ソイン)たちが、手を組んでクーデターの計画を練り始めます。そして1623年、ついに「仁祖反正(インジョパンジョン)」が起きるのです。

王位を追われる光海君

3月13日の明け方のこと、反乱軍が光海君のいる昌德宮(チャンドックン)に突入、あっという間に宮殿を占拠してしまいます。綾陽君は、まず西宮の幽閉されている仁穆(インモク)大妃のもとに駆け付けます。大妃は、クーデターを喜び、光海君を廃位し綾陽君に王位を継がせるという教旨を下します。その理由について大妃は、「第一に先王(宣祖)を毒殺し、兄弟を殺して母(自分のこと)を幽閉した、第二に過度の土木工事で民衆に塗炭の苦しみを与え政を危うくした、第三に後金(のちの清)に投降した」とあげ、クーデター勢力に名分を与えたのです。

クーデター勢力にとって、光海君の政治は悪政として罵倒する必要がありますので、これらのことはクーデター勢力が掲げた単なる名分にすぎません(兄弟を殺したのは事実ですが)。

実際、壬辰倭乱からの復興を遂げようやく安定期に差し掛かっていたのが、光海君の時代です。彼は、明と後金とを相手に中立外交を展開して国力を温存していたにすぎませんし、土木工事といっても焼失した宮殿の再建ですからこれはやむをえません。そもそも、継母である仁穆大妃を幽閉していたのも、彼女が「光海君が先王を毒殺した」と主張し続けていたからです。

しかし、西人勢力は自分たちを政界から追放した光海君に恨みを抱き、ようやく安定しかかっていた国の基盤すらも破壊してしまいます。これにより仁祖の時代は、さらに混乱に襲われることになります。

屈辱の王

三田渡(サンジョンド)の恥辱

クーデターに成功した仁祖は、光海君を支持していた大北派の大粛清を行い、親明事大主義で政治を推し進めます。が、このことは、国際情勢を知らない王が道を誤る典型となりました。

仁祖が即位して一年もたたないうちに、反乱がおきます。「仁祖反正」に加わったいわば身内の起こした反乱で、このために仁祖は漢城を捨てて非難しなければならないほどでした。発足したばかりの仁祖政権にとって、これは痛恨の一撃です。壬辰倭乱のときのように外国勢に侵略されたわけでもないのに、王が避難する状況に陥るというのはさすがにカッコ悪いですよね。このショックで朝廷のみならず民衆もしばらく立ち直れなかったといいます。

さらに、この反乱を抑えるために北方の主力部隊を南下させてしまったため、辺境の防衛にもスキが生じました。

虎視眈々と侵略の機会を狙っていた破竹の勢いの後金です。このチャンスを逃すはずがありません。仁祖が即位して4年目の1627年、ついに3万の兵で朝鮮を攻撃してきます。これが、「丁卯胡乱(チョンミョホラン)」です。もちろん、防ぎきれるわけもなく仁祖は江華島に避難。とりあえず講和はするものの、さらに1636年には、後金は国号を「清」と変え、新たに君臣関係を結ばせ、貢物と明を討伐するための援軍3万を要求してきました。もちろん、明を宗主国とする立場を崩さない朝鮮の朝廷はこれを拒否。すると清は、12万の兵で朝鮮を侵略します。朝鮮軍は南漢山城(ナマンサンソン)に籠城するものの力の差は歴然、国を存続させるためには降伏するしかありませんでした。

仁祖は、三田渡(サンジョンド)で、清の皇帝に対して臣下の礼を取らされます。さらに、昭顕(ソヒョン)世子鳳林(ポンニム)大君らを人質として差し出すことになるのです。

はてな

三田渡:ソウルの漢江沿いにある渡し場。現在のソウル市松坡(ソンパ)。

息子も孫も殺した王

昭顕世子と鳳林大君は、清の人質として8年間暮らし、朝鮮へ戻ってきました。

昭顕世子は、清にもたらされていた西洋の文物に接し、また西洋人との交際を通じて新しい思想を学んでいました。清との良好な関係を維持しつつ、新しい文物を持ち帰った世子は、仁祖に疎まれるようになります。それどころか、清が、昭顕世子に王位を譲るように迫ってくるのではないか、という疑心暗鬼に駆られていきました。昭顕世子が、帰国の際に持ち込んだ西洋の書籍や機械などを見せたとき、仁祖は激怒してそばにあった硯を投げつけたという話も残っているほどです。

父親に疎まれるようになったことが原因かどうかはわかりませんが、昭顕世子はまもなく病にかかり、死んでしまいます。記録から判断すると、これは仁祖による毒殺である可能性もあるようです。さらに、このあと仁祖は世子冊封をしようとしますが、昭顕世子の長男に継がせるべきところを、慣例を破り次男の鳳林大君を世子としました。そのうえ、昭顕世子の支持勢力と、世子嬪らの兄弟を配流し、昭顕世子嬪を幽閉してしまいます。さらに賜薬を下して自決させると、昭顕世子の長男と次男(つまりどちらも仁祖の孫)を済州島へ流して殺してしまいました。生き残ったのは、三男ただ一人。息子はともかく孫まで手にかけてしまったのです。

クーデターによってまで得た王位でしたが、得たものは苦難と屈辱、そして悲嘆と後悔だったのかもしれません。

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