朝鮮王朝の政治と社会

「第一次王子の乱」と「第二次王子の乱」

親兄弟が殺しあうというのは、私たちのような一般庶民には考えられないことですが、歴史的に見ると世界中で行われているごく普通の出来事のことです。もちろん、李氏朝鮮もその例にもれません。その最初のできごととなった「第一次王子の乱」そして、続く「第二次王子の乱」についてご紹介しましょう。

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「第一次王子の乱」朝鮮王朝の血塗られた歴史のはじまり

「第一次王子の乱」とは

1398年(日本では室町時代。足利義満が金閣を建立したころです)の8月25日、李芳遠(イ バンウォン)と同腹の王子らが、私兵を動員して鄭道伝(チョン ドジョン)らの勢力を奇襲攻撃して殺害し、さらに世子李芳碩(イ バンソク)とその実兄李芳蕃(イ バンボン)を殺害するという事件が発生しました。これが、「第一次王子の乱」です。ほかに、「芳遠の乱」「鄭道伝の乱」「戊寅靖社(ムインジョンサ・1398年の干支は戊寅)」などの名称もあるようです。

「第一次王子の乱」はなぜ起きたのか

朝鮮開国に際して功労があった者たちの政治的地位は、当然のことながら開国後は高くなりました。なかでも、李成桂を推戴して玉座につけた鄭道伝は、大きな力を持つようになります。特に、彼は臣下が権力を行使するという政治観をもっていました。正確には違いますが、いわゆる「王は君臨すれども統治せず」に近い政治観だったわけですね。ですから、特に王族が権力を握るのを嫌いました。そこで、「王族は政治には関われない」という体制を敷いたのです。

当然、この政治の仕組みは王子たちの反発と不満を生み出します。そもそも朝鮮建国に貢献してきたのは、芳遠らの年かさである韓氏腹の王子たちでした。それにもかかわらず、建国後は蚊帳の外に追いやられ、世子の座すら異母弟の末っ子芳碩にもっていかれたわけです。しかも、本来であれば、王妃の座についていたのは彼らの生母韓氏だったはず。

しかし鄭道伝は、王妃の康氏と世子芳碩を後ろ盾にしており、うかつに手が出せませんでした。韓氏腹の王子たちにとっては、まさに大きな脅威だったわけです。

事態が動いたのは、1396年に王妃の康氏が亡くなってからのことです。これを契機として、芳遠は政界進出への動きを加速させていきました。それに対し鄭道伝も、王子たちが私兵を統帥している限り、強力な軍事力を背景に政治的な影響力を行使するであろうし、また政府に兵権を集中させることも不可能であると考え、王子たちが率いてきた私兵を解体させようとします。

こうして芳遠と鄭道伝との対立が極限にまで達し、ついに芳遠がクーデターの口火を切るのです。

靖安大君 李芳遠の反撃

芳遠は、李成桂の3男芳毅(バンウィ)や4男芳幹(バンガン)らの兄弟たちとともに、鄭道伝らの一派を殺害することを決意します。

まず、鄭道伝・南誾(ナムウン)・沈孝生(シムヒョセン)などが、

太祖(李成桂 イ ソンゲ)が危篤だとだまして、王子たちを宮殿に呼び出す。そのあと、一挙に韓氏腹の王子たちを殺害する。

という陰謀を計ったと、でっち上げました。芳遠は、これを阻止するという名目で私兵を動員し、鄭道伝らを襲撃していきます。さらに、芳遠の異母弟である世子芳碩を廃位し流刑に処したあと、もう一人の腹違いの弟芳蕃とともに殺害してしまいます。芳遠は31歳、兄弟の末っ子であった芳碩はわずか16歳でした。

この時、王子たちの父である太祖(李成桂 イ ソンゲ)は病床にあったため、この状況を正確に把握できませんでした。のちに、芳遠によって芳碩、芳蕃が殺されたことを知ると悲しみのあまり、王位を放り出してしまいます。

こうして芳遠のクーデターは見事に成功しました。芳遠の腹心であった河崙(ハリュン)らは、彼を世子にしようとしましたが、芳遠はこれを固辞し、次兄である永安大君芳果(バングァ)を世子に冊封して王位につかせます。これが、第2代定宗です。

さらに第二王子の乱へ

このクーデターによって、芳遠は功臣として叙せられ、政治的な実権を掌握します。次兄を飾り物の王として、自らが政治改革を行っていったのです。特に、兵権を集中させ中央集権体制を強化させるために、王族の私兵を廃止しようと強硬策に出ます。かつて鄭道伝が、芳遠ら王族の私兵を撤廃して勢力を削ごうとした政策を、今度は芳遠自らが、その勢力を強化するために兄弟たちに押し付けたのです。

特に、芳遠のすぐ上の兄である懐安大君芳幹(バンガン)は、王位継承に関して野心を持っており、そのまま私兵を維持させておけば、芳遠の脅威となる可能性がありました。芳遠は、政略的に王子らの私兵を廃止するために動き出します。やがて、朝廷での王位継承についての意見が芳遠に傾き始めると、芳幹の猜疑心と不満は鬱積していきました。やがてこの状況が、兄弟を再び争いの渦に引きこむこととなるのです。

「第二次王子の乱」はじめから見えていた勝負

「第二次王子の乱」とは

1400年正月、太祖(李成桂)の4男懐安大君芳幹は、朴苞(パクポ)とともに私兵を動員して「第二次王子の乱」を起こしました。しかし、靖安大君芳遠によって、あっけなく鎮圧されてしまいます。これにより、芳遠は世子の地位を得、芳幹は配流、朴苞は処刑されて「第二次王子の乱」が幕を閉じました。この乱は別名「芳幹の乱」「朴苞の乱」ともいいます。

芳幹と朴苞

そもそも、この二人は何故乱を起こしたのでしょうか。

芳幹が、王位継承に野心を持っており、弟の芳遠に対して不満を持っていたことは述べました。では、朴苞とは誰ぞや?突然、ぽっと出てくるんですよね。

朴苞は、実は第一次王子の乱のときに、「鄭道伝が芳遠を排除しようとしている」と密告して大手柄を建てた人物なんだそうです。しかし、論功行賞では自分が望むような地位や扱い(一等功臣)にならなかったことに不満を持っており、それに対して異議を唱えたため島流しにあっていました。そうしたなかで、芳幹と芳遠の不和を知り、この恨みを晴らそうとします。今度は、「芳遠が芳幹を殺そうとしている」と虚偽の密告に走るのです。芳幹は、もともと頭に血が上りやすいタイプだったらしく、この朴苞の言葉の真偽を確認もせずに、兵をあげたのでした。後世の人々が、太宗(芳遠)に忖度して歴史を脚色したのかもしれませんが、なんともお粗末な二人です。

開城(ケソン・下部参照)のど真ん中で、しかも正月に派手な市街戦を繰り広げた挙句、結果は芳遠の勝利に終わります。他の兄弟たちも、乱を起こした芳幹に冷たい態度をとり、芳遠を支援したといいます。

これによって、芳遠の対抗勢力はほぼ消滅し、その政治的な立場はより堅固になっていきました。乱の鎮圧後、河崙の奏請によって、定宗は1400年2月に弟芳遠を世子に冊封、その年の11月には芳遠に譲位します。

メモ

1399年、漢陽(ハニャン)の地形に問題があるとして、首都が再び開城(ケソン)に移されました。景福宮が竣工した1404年に、再び漢陽への遷都が行われます。以後、漢陽は、今日のソウルに続く繁栄を築くこととなります。

異母弟は殺しても同母兄は殺さなかった

さて、「第一次王子の乱」で、異母弟とはいえ、幼い弟たちを情け容赦なく殺害した芳遠ですが、同母兄の芳幹のことはどうしたのでしょうか。

実は、当然のことながら朝廷の大臣たちは、何度も芳幹を処刑すべきだと勧告しました。しかし、芳遠は王位についた後も、最後まで芳幹を殺さず配流のままとしました。むしろ、病気になれば医師を送って助けたといいます。さらに、その芳遠の子世宗の時代になっても、この件が論議されることがたびたびありましたが、これも拒否。さすがに、芳遠も同じ母をもつ兄を殺したくはなかったのかもしれません。

そのおかげで、芳幹は58歳の天寿を全うすることができたのです。

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