史実的にはあまり実績がないものの、ドラマに描かれることが多いのが第11代中宗です。中宗の時代は、かなり個性的な人物が多いので、そうした人たちに焦点をあてたドラマがたくさんあります。
Contents
中宗 クーデターで即位した王
1506年9月、燕山君(ヨンサングン)の暴政に対して起きたクーデター(反正)により、燕山君の弟である晋城大君(シンソンテグン)が即位します。これが、第11代の「中宗(チュンジョン)」です。このとき彼は18歳でした。当時としては十分な大人ではありましたが、若くしてクーデターで即位したため、その在位中はクーデターの功臣らに押さえつけられて、政治力はあまり強くなかったといわれています。韓国の歴史ドラマの中でも、わりと頼りないダメっぽい王様として描かれていることが多いかもしれません。
中宗の父、成宗は、12人の夫人との間に16男、12女をもうけました。成宗の正室である恭恵(コンヘ)王后・韓(ハン)氏は子を産まずにわずか18歳で亡くなりましたが、その後、王妃となった尹(ユン)氏が燕山君を産みます。ところが尹氏は廃妃となり、代わって王妃となった貞顕(チョンヒョン)王后・尹氏が、晋城大君=中宗を産みました。「尹氏」が二人もいるので、ちょっとややこしいところですね。中宗の母貞顕王后は、のちに慈順(チャスン)大妃と呼ばれるようになります。
「中宗反正」前夜
成希顔(ソンヒアン)と朴元宗(パクウォンジョン)
韓ドラでは、もはや暴君の代名詞として名高い燕山君(ヨンサングン)。民衆はもちろん、臣下からも見放され、朝鮮王朝初のクーデターによって、王座から引きずりおろされる王です。
このクーデターを早くから計画していたのが、成希顔(ソンヒアン)という人物。学識が豊かで大胆な性格であり、燕山君の父親である成宗の寵愛を受けていたといわれます。もちろん、最初は燕山君にいろいろと忠告もしたのでしょうが、疎まれて左遷されてしまいます。そんな成希顔(ソンヒアン)が最初に声をかけたのが、朴元宗(パクウォンジョン)です。彼は、燕山君の信任を得て国の財政を担当しており、そのためにしばしば放蕩を続ける燕山君をいさめてもいました。しかし、それも報われることなく、官職もはく奪されてしまったという人物。
月山大君(ウォルサンテグン)の夫人
燕山君は、やがて父親であった成宗の宮女や、多くの外命婦の女性たちとの淫行に溺れるようになります。そんな中で、ある一つの事件が起こります。
朴元宗(パクウォンジョン)の姉は、成宗の兄であった月山大君の夫人でした。彼女はなかなかの美人だったそうですが、その容貌が禍を招きます。言葉巧みに、宮中へ夫人を呼び出した燕山君は、彼女を凌辱したのです(ただし、この事件については諸説あるようです)。燕山君にとっては、伯父さんの奥さんですから、伯母さんです。伯母さんとむにゅむにゅ……という噂がたてば、「烈女」を女の理想の生き方としたこの時代のことです。夫人は耐えられずに自害してしまいました。
お姉さんが、無念にも辱められて自害してしまったわけですから、朴元宗(パクウォンジョン)は恨みを抱えるようになります。こうして、燕山君を倒そうとする計画が立ち上がっていくのです。
臣下が王をかえたクーデター
中宗反正
成希顔(ソンヒアン)と朴元宗(パクウォンジョン)らが、晋城大君=中宗を担ぎ上げて決起したのは1506年のことです。日本では戦国時代に突入する時期ですね。
ひそかに同士を集め、いよいよ決行というときに最初に排除の対象となったのが、慎守勤(シンスグン)という人物でした。彼は、燕山君の側近でしたが、ちょっと微妙な立場にあったのがポイント。
実は、彼の妹は、燕山君の妃でした。しかし彼の娘は、成希顔と朴元宗らがクーデターによって王にしようとしていた晋城大君=中宗の夫人(「チマ岩の伝説」で有名な女性)だったのです。つまり、慎守勤は、燕山君の義兄、晋城大君(中宗)の義父という立場にあったわけです。
朴元宗は、慎守勤の考えを探るために彼を訪ねます。
娘をとるか、妹をとるか。
それとなく探るために、朴元宗は将棋の対局を求め、あえて「将」の駒を取り換えて置いてみました。すると、慎守勤は将棋盤を力をこめて押さえつけながら、「首をはねていくがよい」と言い放ったという言い伝えがあります。つまり、慎守勤は最終的に燕山君を選んだのです。
クーデターが成功し、兵士らとともに王宮に入った朴元宗は、大妃(成宗の継妃 貞顕王后)に次のように求めます。
王はすでに王としての道理を失い、王室の存続が危ぶまれている。民衆の暮らしも苦しく、我々家臣はこれをとても心配している。そこで晋城大君を新たに王に推戴(すいたい)しようと思う。
晋城大君は、大妃の実子ですから異論のあろうはずもありません。こうして晋城大君は、王宮に入り即位します。朝鮮の建国以来、臣下が王をかえたのはこれが初めてのことでした。
その後の燕山君
中宗は即位したその日に燕山君を江華島へ送り、廃された王として「燕山君」と呼ぶことにします。燕山君は、その年の11月、江華島で病気になり、31歳の若さで亡くなりました。中宗は、大臣たちの主張に従って王子の待遇で葬儀を行い、諡号は下されませんでした。こうして、燕山君は、歴史上「王」として扱われない王になったのです。