朝鮮王朝の王様たち

英祖(ヨンジョ) 第21代王

身分の低い母親から生まれ、朝廷の闘争に巻き込まれながらも、朝鮮王朝の王様の中で一番長い治世を敷いたのが英祖です。その波乱万丈の生涯について解説します。

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朝鮮王朝で51年の治世は破格!

英祖は、歴代の王のなかでも最も長命だった王であり、在位期間も51年7か月にも及びます。在位期間が10年に満たない王も少なくない中で、この長さはまさに記録的といえるかもしれません。「トンイ」では、母親似の愛らしく賢い王子として描かれていた「クム=延礽君(ヨニングン)」がのちの英祖です。兄思いのやさしい王子で、最後は王妃の養子となって無事に即位したシーンでドラマは終わりましたが、実際は相当危ない橋を何度も渡りました。

そもそも、王になれるような血筋の王子でもありませんでした。母親の淑嬪崔氏(スクピン・チェシ:「トンイ」は架空の名前です)は、宮廷で働く下女(賤民)でした。女官ですらなかったわけです。しかし、思いがけず粛宗の目に留まり、彼女は男子を3人も生みます。ただし、うち2人は夭折し、延礽君だけが生き残りました。

絶体絶命のピンチ!

何度も粛清の嵐に巻き込まれる

1721年、世弟延礽君に大きなピンチが訪れます。景宗を支持していた少論派が、「老論派の重臣4人は、景宗から延礽君への王朝交代を企んだ」と老論派の謀反を訴え出たのです。少論派は、彼らを弾劾して配流にしました。これを「辛丑獄事(シンチュクオクサ)」といいます。さらにその勢いで、老論派の一部の者が景宗の暗殺を企んでいたという告発を利用して「壬寅獄事(イミンオクサ)」という事件に発展させ、激しい粛清を開始します。

これによって、老論派の重臣たちは失脚、朝廷の権力は少論派に移りました。

さらに、少論派による老論派の粛清は続きます。この翌年、「老論派は、粛宗の末期に当時世子だった景宗を暗殺しようと企んでいた」という告発がなされました。これは、老論派の小役人だった人物の裏切りによってなされたものでしたが、老論派に大打撃を与える事件となりました。すでに流刑となっていた、さきの老論派の重臣4人は自決させられ、そのほかに死刑となった者は約20人、韓ドラ時代劇名物の拷問で死んだ者が約30人、彼らの家族数百人も、処刑されたり配流となったりしました。こうした一連の事件をあわせて、「辛壬士禍(シニムサファ)」といいます。

九死に一生を得た延礽君

辛丑獄事においては、世弟延礽君は当事者です。さらに続く壬寅獄事においては、世弟延礽君も景宗暗殺未遂事件に加担していたという内容が、報告書に記されました。こうなれば、もはやその命は風前の灯火。慣例であれば、謀反に加わった王子に命はありません。

しかしこのとき、王統を継ぐべき王子は、世弟延礽君以外にはいませんでした。そのため、かろうじて生き残ることができたのです。

自らの支持基盤である老論派の勢力が衰え、絶体絶命の窮地に陥った世弟延礽君を支えたのは、大妃仁元王后(粛宗の継妃)でした。大妃仁元王后は、日頃から老論派の側に立って、世弟延礽君をかばっていました。このときも、ハングル文字で書かれた教旨を数回にわたって下し、少論派の専横を抑え世弟延礽君を絶体絶命の危機から救ってくれたのでした。

こうしてかろうじて命を繋いだ世弟延礽君は、壬寅獄事の2年後である1724年、なんとか即位します。英祖は、まさに危機一髪で王位に就いた王だったのです。

権力党争に巻き込まれた父子

蕩平(タンピョン)政治

老論と少論の熾烈な権力党争に巻き込まれながらも、なんとか即位にこぎつけた英祖は、即位すると直ちにこうした党派間の争いの悪弊をなくそうと、「蕩平(タンピョン)政治」を実施します。王権を強化し、人材を広く登用しようとしたのです。必ずしも、順風満帆ではありませんでしたが、多くの困難を非凡な政治的能力で乗り越えつつ、安定した治世を敷いていきました。

しかし、「蕩平政治」が続くと、各党派は再び政権を独占しようと計略を立て始めます。この再びの権力党争に、今度は息子が巻き込まれ、父親と息子の反目に発展していくことになります。

荘献(思悼)世子事件

英祖は、健康上の理由から、荘献(チャンホン)世子に代理聴政をさせます。ところが、それを機に南人と少論などの勢力が彼をバックにして政権を掌握しようと動き出したのです。これに、世子を廃そうとする老論勢力と、彼らに同調していた英祖の継妃貞純王后、淑儀・文氏などの企みが加わります。つまりそれぞれの勢力が、世子には英祖の、英祖には世子の誹謗中傷を吹き込んだわけですね。その結果、父と子は次第に仲たがいをするようになってしまいます。

この反目により追い詰められた世子は、やがて精神的にも追い込まれ、奇行が目立つようになっていきます。そうなれば相手の思うつぼ、世子を排除しようとする老論らの勢力は、世子の10の非行について英祖に訴えました。英祖の世子に対する不信は高まり、ついに息子への怒りが爆発してしまった英祖は、真相を確かめることもなく、世子に自決を求めました。ところが、世子はこれに応じません。英祖は、ついに世子を廃位して庶人に降格、さらには米櫃のなかに閉じ込めて餓死させてしまいます。

のち、英祖はこのことを後悔し、哀悼の意をこめて「思悼(サド)」という諡号(おくり名)を与えました。

この事件は謎も多く、韓国ドラマ時代劇や映画などにもしばしば取り上げられていますよ。

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