朝鮮王朝の政治と社会

「事大交隣(じだいこうりん)」とは?朝鮮王朝初期の外交

「事大交隣」なんて難しそうな四字熟語、ご存知ですか?実は、韓国ドラマ時代劇では重要なキーワードです。字面は難しそうですが、それほど面倒なお話ではないので簡単に解説しますね。

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明との関係

明という大国に対して、朝鮮は臣下としての立場を貫きます。つまり、大きな勢力とは無駄に争わずに従おうという考え方です。これを「事大主義」「事大政策」などといいます。太祖のとき、一時的に関係が悪くなりましたが、太宗以降、両国の関係は改善され盛んに文化の交流が行われました。

この事大政策は、互いの独立性は認められていましたので、隷属関係にあったということではありません。毎年、定期的にもしくは臨時に、使節の交換が行われましたが、そのときには盛んに文化的、経済的な交流が行われました。つまり、実利を重視したわけです。この政策によって、王権は安定し、また国の自主独立を保つこともできました。

朝鮮は、明や清を宗主国とし臣下の礼をとりましたから、朝貢することはもちろんのこと、呼称なども、「王(皇や帝を使用しない)」「王妃・王后(皇后を使用しない)」「世子(太子を使用しない)」などとなったわけです。時代劇では耳にタコができている名文句、「王命である!」の「王命」が使われるのも、そのためです(天皇や皇帝の命令は「詔勅(しょうちょく・みことのり)」といいます)

さらに、明や清を宗主国とする関係は、王室に何度か血の争いを生じさせます。宗主国に認められないと(認められることを「冊封(さくほう)」といいます)、正式に、王や世子、王妃などにはなれないからです。実際、「明(または清)に認められていない=冊封されていない」ということで、王妃や世子はもちろん、さらには王の座から引きずり降ろされた人もたくさんいます。こうしたことにつけこんで、重臣や寵姫たちが、ライバルや邪魔者の足を引っ張ろうと悪だくみをするシーンは、ドラマではよく出てきます。「冊封」とは、王命以上の力を持つものだったというわけですね。

女真族との関係

女真族は、のちに明を倒して清を建てる民族です。現在の中国東北部からロシアの極東部にかけて分布していた騎馬民族で、しばしば朝鮮とも領土問題を引き起こしました(17世紀には侵略されて第16代王仁祖は、臣下の礼を取らされるという事件も起きます)。朝鮮は国境地方の安定のために、積極的な外交政策を展開しました。

まず太祖によって、豆満江(トゥマンガン)の周辺が開拓され、ついで世宗のときには、現在とほぼ同じ国境線(北朝鮮)を確定します。


以降、女真族に対して朝鮮は「懐柔」と「討伐」との政策をとります。女真族の人々に対して、朝鮮への帰順を奨励し、官職を与えたり、土地や住居を与えたりしたのです。つまり、一種の同化政策、女真族を朝鮮の人民として取り込もうとしたというわけですね。国境では、貿易も許可されました。

しかし、このような政策を実施しても、女真族はしばしば国境を侵して略奪を働きます。そのため、そのたびに朝鮮は軍を動員して戦わざるを得なかったのです。

日本との関係

日本とは、友好的に交流する政策(交隣外交)をとりました。高麗末から朝鮮初期にかけては、「倭寇」の侵略が激しくなった時期でした。そのため、水軍の強化が図られます。特に火薬による武器の開発が行われ、船舶などにも装備されるようになります。

1419年(世宗元年)には、倭寇の根拠地とみなされていた対馬を攻撃します。日本史では、「応永の外寇」と呼ばれる事件です。お互いに甚大な被害を出しましたが、この事件後の交渉によって、対馬は日朝貿易を独占することになりました。なお、琉球やシャムなどの東南アジアとの交流も行われました。

このように、明に対しては「事大主義」、日本に対しては「交隣外交」という外交政策をとったので、あわせて「事大交隣」というわけです。

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