朝鮮王朝の政治と社会

李氏朝鮮は「易姓(えきせい)革命」によって誕生した

韓国ドラマ時代劇の中心的存在「李氏朝鮮」。どのようによって誕生したのかご存知ですか?時代を少しさかのぼって、高麗末期から解説しますね。

Contents

「易姓(えきせい)革命」とは儒教の政治思想のひとつ

儒教(儒学)とは

孔子は、紀元前550年ごろの中国(当時を「春秋時代」と呼びます)を生きた思想家です。なんと今でもその子孫がいるのだとか。孟子や荀子といった弟子を輩出し、やがて中国のみならず、朝鮮半島をへて日本にまで大きな影響を及ぼすことになった「儒学」の祖。東京の「湯島聖堂」をはじめ、日本各地にも孔子を祀るお堂がたくさんありますね。今日でも、学校で「学びて時に……」等の論語の一節を習いますから、日本人なら少なくとも、「ああ、アレね」ぐらいのことはわかっているかと思います。

日本ではずいぶん儒教的な価値観が薄れていますが、韓国ではまだまだ儒教に基づく文化が息づいています。現代の世相を描いたドラマなどでも、しばしばそうしたシーンが見られるので、面白いなと思いつつ見ています。ちなみに、「儒教」とはいいますが、「儒教」は宗教ではありません。宗教というよりは、「哲学」とか「倫理」のジャンルに属します。

それはともかく、そうした儒教の思想の一つに「易姓(えきせい)革命」と呼ばれるものがあります。

ダメな王様は取り替えてよし!

そもそも儒教には、天子(基本的には皇帝のことですが、朝鮮の場合には王様のことになります)というのは、天命(天意)を受けてその座につくものである、という考え方があります。しかし、名君の子が名君になれるとは限りません。どうしようもないボンクラが、位についてしまうことだって残念ながらあるわけです。そうなるともう国運は、坂を転げ落ちるようにどん底へ向かってまっしぐら。各地で反乱や略奪がおき、病気が流行り、天災に見舞われる……と、亡国の道を進むことになります。

そうしたときに、天は、徳のある人物に国を治めるように再び命じるわけです。こうして、王朝の交代が起きる、というのが「易姓革命」です。

高麗末期は、元の衰亡と明の勃興、倭寇の侵攻などの影響を受けて、国は疲弊していました。相次ぐ戦と飢え、そして貴族らの過酷な搾取により、人々はギリギリのところで命をつないでいたわけです。そんな事態に対処する力を失っていた高麗王朝を倒し、李成桂(イ ソンゲ)は、朝鮮を建国しました。

とはいうものの、李成桂自身は、当初、新しく国を建てるという意志はあまりなかったようです。

実は、この「易姓革命」によって新しい国を興そうとしたのが、鄭道伝(チョン・ドジョン)と、無学(ムハク)大師という人物でした。彼らは、低い身分であったため、高麗王朝では能力がありながらも排除される対象となっていました。そこで、彼らは同じように力はありながらも、辺境防衛のために、絶えず戦場を駆け巡り、中央からは排除されていた李成桂を訪ねて、新しい王朝を建てるようにと説いたのです。

彼らの理論に説得され、そして李成桂自身が抱えていた不満とが一致した瞬間、新しい国が誕生し、500年の繁栄を謳歌することとなっていきますが、この時代はドラマにも多く描かれるので、高麗末期の様子についてちょっと解説しておきましょう。

李氏朝鮮の建国

改革か革命か

高麗末期、軍事的実権を握った李成桂は、政治的にも大きな影響力を持つようになります。しかし、ここで士大夫(官僚)らの意見が真っ二つに分かれて対立します。

第一のグループは、穏健改革派。高麗王朝の枠の中で改革を推し進めようとするグループで、李穡(イ セク)鄭夢周(チョン モンジュ)などの人物がいます。この時代を描いたドラマにはたいていこの2人は登場します。このグループは、それまでの腐敗政治の中心にいた勢力を取り除いて、土地改革を行うことには賛成でしたが、高麗王朝を中心とした社会秩序を破壊することや、大規模な土地制度改革には反対でした。

それに対してもう一方は、急進改革派。こちらは高麗王朝はすでに天に見放されたと考える人たちで、易姓革命を主張します。彼らは、腐敗した政治体制の下で巨万の富を築いた権勢家らの私有する土地を、改革によって縮小しようとしました。このグループの代表が、鄭道伝です。当時、李成桂はこちら側にいました。

対立の結果、鄭道伝らの急進派は、穏健派の中心である鄭夢周を暗殺、李成桂は、恭譲王(コンヤンワン・高麗最後の王)から王位を譲り受けるという形を整えてのち、朝鮮を建国します。

太宗による王権の確立

太祖(李成桂)は、都を漢陽(ハニャン)に遷し、都城を築き、景福宮や宗廟、役所や市場、道路などを整備しました。

政治のしくみを整えるのに尽力したのは、鄭道伝です。彼は、立派な宰相(総理大臣)を選んで政治の実権を与えることにより、宰相中心の政治を行うよう主張します。さらに、高麗において弊害の多かった仏教勢力を批判し、性理学(=儒教)を統治理念として確立させることを目指しました。

しかし、次第に鄭道伝らの開国功臣勢力と、李成桂の5男李芳遠(イ バンウォン)らとの対立が激化。やがて「第一次王子の乱」によって、鄭道伝らは殺害され、太宗(李芳遠)が王位につきます。太宗が目指したのは王権の強化でした。

まず、鄭道伝の主張した「宰相中心主義」ではなく、国王中心の政治体制を整えようとします。特に、太宗は、「六曹」とよばれる各部署(省庁のようなもの)から、宰相や大臣たちを通さずに、直接王に奏上して裁可を受けられるようにしました。また、土地政策にも力を注ぎ、戸籍の把握に努め「号牌法(16歳以上の男子が、身分証=牌をもつことを義務付けたもの)」を実施、一方で寺院の土地を没収します。さらに、貴族や王族らが所有する私兵を廃止して、王が軍事指揮権を掌握しました。こうして、朝鮮王朝の長い歴史の基礎が築かれることとなります。

関連記事

-朝鮮王朝の政治と社会
-, ,

Copyright© 韓国時代劇の王様たちとその時代 , 2024 All Rights Reserved.