朝鮮王朝の王様たち

光海君(クァンヘグン) 第15代王

もう一人の諡号(おくり名)を持たない王、光海(クアンヘ)君。彼は、燕山君のような暴君ではありませんでした。彼は、なぜ王の座を追われなければならなかったのでしょうか。

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秀吉の朝鮮出兵が、光海君を王にした

宣祖には14人の息子がいたが

宣祖(ソンジョ)には、14人もの王子がいました。長男が臨海(イメ)君、次男が光海君で、彼らの母は恭(コン)嬪金(キム)氏です。韓国ドラマ時代劇に登場する王子としては、仁(イン)嬪金氏信城(シンソン)君などがいます。14人も息子がいながら、全部庶出。つまり、王后の産んだ王子は一人もいなかったというわけです。

宣祖自身、傍流の王族で棚ボタ的に王位が回ってきた人です。それまで、王位は嫡流(王后腹)の王子が継いできたわけで、彼の即位そのものが異例でした。嫡流ではないということは、宣祖にとっても相当な負い目だったことでしょう。ですから、自身の嫡流となる王子がいないことは、大きな悩みだったに違いありません。

嫡流の王子がいれば、それほど問題は難しくなかったはずですが、庶出には14人も王子がいる。これは、やっかいです。優位に立てる王子がいないということは、どんぐりが14個並んでいるようなもの。ですから、宣祖はずっと世子冊封を引き延ばしていました。名分があるとすれば長男の臨海君ですが、粗暴で君主の気質がないとの評判。寵愛する信城君には、世子にする名分がない。王の気質があると評判だったのか光海君ですが、彼は東人と西人との闘争に巻き込まれてしまい、なかなか世子になれずにいました。

しかし、壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)によって転機が訪れます。景福宮が焼かれ、都を捨てて逃げざるを得なくなった朝廷は、分朝を設けることにしました。

分朝とは非常事態に臨時に設けられた朝廷のことです。王様に万が一のことがあった時には、速やかに世子が朝廷を率いることができるようにする仕組みです。宣祖が避難していた義州が「本朝」で、咸鏡道に避難していた光海君のところを「分朝」にしました。このときに、ようやく光海君が世子に冊封されます。

次男の光海君が世子になったのは、長男の臨海君に人望がなかく、壬辰倭乱では加藤清正(かとうきよまさ)の捕虜になっていたからです。また、宣祖の寵愛を受けていた信城君は、逃避行の途中で病気になり亡くなっていました。

一難去ってまた一難

ようやく世子となった光海君ですが、まだまだ問題がありました。世子を冊封するには、明の朝廷に報告し、その許可を得ることが必要です。これを「誥命(コミョン)」といいます。これが送られてきて初めて、正式な世子と認めてもらえるのです。戦乱の最中、宣祖が明に使者を派遣して世子冊封を奏請したにもかかわらず、明は長男の臨海君がいるという理由で、これを拒否してしまいます。父親は認めたが、宗主国が認めてくれないという状況になってしまいました。

とはいえ、非常事態に、明の許しがあるだのないだの言ってはいられませんよね。大臣たちは、光海君を世子として仕えるしかありませんでした。この戦乱における光海君の実績は大きく、周囲も次第に光海君を世子として認めるようになっていきます。

ところが。

戦乱が終わり、病弱で子どもが産めなかった懿仁(ウィイン)王后が亡くなると、18歳の仁穆(インモク)王后金氏が、継妃として宣祖に嫁いできます。するとなんと彼女が王子(永昌大君 ヨンチャンテグン)を生んでしまうのです。つまり、宣祖は嫡流の王子を得たことになります。あれほど望んだ嫡流の王子を得たわけですから、宣祖の心が動かないわけはなく、またその心中を忖度しない家臣もいないわけがありません。

光海君に最大のピンチが訪れます。

暴君と記された悲運の王の誕生

なんとかつかみとった王位

朝廷は、永昌大君支持の小北(ソブク)派と、光海君支持派の大北(テブク)派との対立が深まっていきましたが、時が決着をつけました。病床にあった宣祖が亡くなったのです。小北派は、仁穆王后に永昌大君を即位させて、垂簾聴政を行うよう勧めましたが、現実味がないと判断した仁穆王后は、ハングル文字の教旨を下して光海君を即位させました。これでようやく、光海君が朝鮮王朝の第15代王となったのです。

粛清の嵐

即位はしたものの、王位を脅かす存在は残っていました。兄の臨海君と、弟の永昌大君です。

光海君が即位した後、明が朝鮮の世子冊封に対して、真相を調査するための使節団を送ってきました。庶出の王子が即位したということは、明でも問題視されていたのです。このとき臨海君は、本来なら自分が王位を継ぐべきなのに王位を盗まれたなどと、露骨な誹謗中傷をして回っていました。ただでさえ、いまいましい明の使節団が来るというのに、臨海君の態度は許せません。もちろん、光海君を支持する大北派の大臣たちもこれを見過ごすことはできません。そこで臨海君を配流し、そのうえで賜薬を下して自害させます。

さらに、永昌大君を擁立しようとする動きがあるとして、仁穆王后の父を自決に追いやり、永昌大君を庶人に落としたあと江華島へ配流にします。さらに、永昌大君を部屋に閉じ込めて薪に火をつけ、その熱気で蒸し殺しにしてしまいます。また、仁穆王后の尊称を配して西宮に幽閉します。

こうして光海君と大北派は、王権を強化するために脅威となった勢力をことごとく排除するのに成功しましたが、多くの命が犠牲となり、その恨みを買うことになりました。これがやがて、仁祖反正(インジョパンジョン)の名分を与えてしまい、のちに暴君と呼ばれることになるのです。

実利主義者の治世

とはいえ、光海君の政治的な実績は少なくありません。

まず、朝廷の綱紀をあらため、壬辰倭乱で疲弊した国家財政の立て直しに奔走しました。特に、大同法(テドンポプ)を実施とすることで、税の負担を軽減させ民衆の暮らしを救済しようとしました。また焼失した宮殿を立て直し(昌徳宮など)、東アジアの激動期にあって、巧みな外交手腕を発揮します。

このころ、満州では女真族の動きが活発となり、その勢力が中国大陸を飲み込もうとしていました。女真族が、後金(こうきん)を建国すると、その侵攻に備えて国防を強化する一方、明の援軍要請には、姜弘立(カン ホンニプ)に一万の兵を与えて支援させました。明が後金に敗れると、姜弘立には適当に応戦するふりをさせた後に投降させ、ヌルハチと和議を結ぶという巧みな二重外交をやってのけます。つまり、明に対しては表向きは協力する態度を見せて宗主国への義理を見せ、後金に対しては、明の要請があったから出兵しただけで友好を結びたいと思っていたんですよ実は、という二重の計略を仕掛けたのですね。

壬辰倭乱後の日本との関係改善を図ったのも光海君です。

また彼は、戦乱で失われた書籍の刊行にも尽力しました。韓国ドラマ時代劇でおなじみの許筠(ホ ギュン)の『洪吉童(ホンギルトン)伝』や、許浚(ホ ジュン)『東医宝鑑(トンイボガム)』などが出たのも光海君の時代です。

光海君は、徹底した実利主義で外交に臨み、強力な王権体制を敷いて富国強兵への道を進もうとした王だったのです。

はてな

『東医宝鑑』:宣祖の命を受けて編纂された医学書。臨床医学的方法で、内科・外科などの専門科別に、疾病の診断と処方を記している。朝鮮のみならず、日本や中国の医療に大きな影響を与えた。ユネスコ世界記録遺産2009年登録。

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