30年も世子として生きながら、在位はわずかに2年8カ月という王様です。彼の死後、再び血で血を洗う政変が起きます。
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世宗の治世の後半を支えた王
世宗(セジョン)の治世は31年あまりでしたが、その後半の約8年は、当時世子であった文宗(ムンジョン)が摂政として支えました。政治的な実務を摂政時代に経験していた文宗でしたので、決して暗愚な王ではありませんでした。しかし、もともと病弱であったため、世子時代の過労から健康状態も悪化してしまいます。即位後は病状も進み、在位期間の大部分を病床で過ごしたといわれています。そして、在位五3年を待たずして38歳の生涯をおえました。
文宗は、幼い時から学問を好み、天文や算術に優れ書道にもたけた逸材でした。性格も柔和で誰からも好かれており、冷静沈着な言動であったため、他人からの批判を受けるということもなかったといいます。
やがて弟たちが悲劇を引き起こす
世宗の治世の後半から世子だった文宗の摂政が続いたことと、文宗自身が言官の言論に対して寛大な態度をとったことが、王権の弱体化につながりました。王が臣下の言葉に耳を傾けるという態度をとったわけですので、ほめたたえられるべき態度なのかもしれません。しかし、逆の見方をすれば、王に対して家臣が強くものを言えるようになったということでもあります。つまりこうした文宗の方針が、裏目に出てしまったというわけです。
さらに家臣たちと対抗するように、王族たちも政治的に影響力をもつようになっていました。なかでも、文宗と母を同じくする弟の首陽(スヤン)大君と、安平(アンピョン)大君は、王位をうかがうようになります。
この二人は、健康状態が悪化した世宗の時代から力を持ち始めていましたが、文宗時代ににはさらにその勢力が増してきていたのです。そうして再び、血で血を洗う王族の争いの幕が上がるのです。