朝鮮王朝の王様たち

燕山君(ヨンサングン) 第10代王

韓国ドラマ時代劇でも有名な暴君の代名詞、燕山君(ヨンサングン)の治世は12年ほどです。ドラマでも大活躍(?)ですが、実際にはどのような王だったのでしょうか。

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最初はまじめな王様だった

燕山君にも政治的実績はある

実は、即位した当初は燕山君は、そこそこまともな王でした。とりあえず、王は変わっても、前代の平和的な雰囲気はそのまま引き継がれ、社会も秩序を維持していました。むしろ、成宗(ソンジョン)時代末期の退廃的な風潮と不正・腐敗を一掃するために、燕山君は、暗行御使(アメンオサ)を派遣して民衆の生活の様子を探り、官僚の綱紀を正しました。また、女真族の侵入に対しては柔和策をとって辺境の安定を図ったり、賜暇読書(サガドクソ)を復活させて学問の質を高めたりと、ちゃんと王様業を頑張っていたのです。

戊午士禍(ムオサファ)で王権を強化した

燕山君が即位して4年後、1498年に「戊午士禍(ムオサファ)」と呼ばれる事件が起きます。成宗が、世祖(セジョン)時代の功臣たちの勢力(勲臣派)を抑えるために登用した士林勢力は、その後も順調に勢力を拡大し、しばしば燕山君とも激しく対立するようになっていました。なにしろ、名分と道義を重んじる士林たちは、ことあるごとに諫言してきますし、燕山君にも勉強に励むように強く求めてきます。儒教理念に凝り固まったカチカチ頭の学者たちに、上から目線でなんだかんだ言われれば、燕山君でなくても、うんざりしてきますよね。

そんなときに、ひょんなきっかけで起きた事件が、「戊午士禍」です。士林派の筆頭に、金宗直(キム ジョンジク)という学者がいました。成宗時代から重用されてきた人物です。大義名分を重んじる彼は、世祖の王位簒奪を批判し、それを支援した功臣たち(勲臣派)を蔑視しました。さらに世祖が端宗(タンジョン)を廃位したことを批判し、中国の故事になぞらえて「弔義帝文(チョウィジェムン)」という端宗を弔慰した文章を著しました。金宗直に個人的な恨みを抱いていた柳子光(ユ ジャグアン)らが、これをことさらに取り上げて問題として始まったのが、「戊午士禍」という粛清です。燕山君は、諫言というかたちで執拗に自分を悩ませていた士林勢力を追放し、王権を強化することに成功しました。

ここから、彼の独裁と暴走が始まります。

燕山君、暴君になる

やりたい放題は本当だった、らしい

「戊午士禍」をきっかけに朝廷を掌握した燕山君は、妓生(キーセン)たちを宮殿に招いて連日宴を開いたり、人妻を襲ったりと背徳的な行動を重ねていきました。韓国ドラマ時代劇の金字塔「大長今」では、この連日連夜の大宴会で、「アワビがない」と尚宮さまたちが焦っているシーンがありましたが、実際に財政は相当ひっ迫していたようです。燕山君は、その穴を埋めるために民衆に重税を課しました。ほかにも、自分の狩りの邪魔になるという理由から、都城を起点にして30里以内にある民家を撤去させる、民衆がハングルで王を批判し始めるとハングルを使用禁止にするなど、絵にかいたような独裁を続けます。

さらに、文臣たちの諫言が煩わしいという理由で、経筵(キョンヨン)と司諫院(サガヌウォン)、弘文館(ホンムングァン)などの言官も免職もしくは減員し、さらに王が世論を知るための制度を撤廃してしまいます。そのうえ、成均館(ソンギュングァン)などを酒色の場にしたり、宦官の金処善(キムチョソン)を自ら矢で射殺したり、暴君の名にふさわしい行動を重ねていくのです。

採青採紅使(チェチョンチェホンサ)

成均館といえば、現在でも有名な大学の一つです。高麗の時代からの歴史を持つ伝統校ですが、朝鮮王朝時代の最高学府でもありました。燕山君は、そこを自分の遊興施設にしてしまったわけです。しかも、朝鮮仏教にとっては聖地ともいえる円覚寺をなくし、その跡地に掌楽院(チャンアグォン)を解消した聯芳院(ヨンバンウォン)を設けて妓女たちの集会場にしました。

さらに、全国に採青採紅使(チェチョンチェホンサ)という妙な役人を派遣して、各地の美女を選抜して上京させた挙句、選ばれた妓女を「興青(フンチョン)」と呼んで、宮殿に呼び入れては宴会を開きました。早い話、宮女狩りですね。このとき、宮中に上がった女性が王の後宮になるということもありました。

言葉にするだけでもぞっとする凄惨さ

甲子士禍(カプチャサファ)

燕山君の生母は、廃妃尹(ユン)氏という女性です。嫉妬深い本人の性格が災いしたのか、あるいは姑に嫌われたのが運の尽きだったのかはわかりませんが、王妃であったにもかかわらず廃されてしまいます。そのうえ、賜薬を下されて自害をさせられ、お墓もテキトーに埋葬されてしまいました。燕山君は、父親に母親が殺されてしまうという悲劇を体験したことになりますが、当時の彼は幼くてこのことを知らずに育ちました。やがて生母のあとに王妃となった貞顕(チョンヒョン)王后(のちの慈順(チャンス)大妃)には、まだ王子がいなかったので(のち、晋城大君=中宗が生まれる)、燕山君が世子に冊封されます。

廃妃となったうえに自害させられた生母をもつ息子が世子という状況は、成宗もさすがに不安だったのでしょう。自分の死後100年は廃妃尹氏のことは伏せておくようにと厳命して、亡くなります。ところが、王と士林勢力の対立をうまく利用して、朝廷での権力を得ようとした任士洪(イム サホン)が、廃妃尹氏の詳しい事情を燕山君に密告します。つまり、王に実母の復讐をさせることによって、自分にとっての邪魔な政敵を排除しようとしたというわけです。

実母の死の真相を知った燕山君は、復讐を開始します。実母の死にかかわった者を、皆殺しにしたうえ、すでに死んでいる者は棺を掘り起こして辱めるという「甲子士禍(カプチャサファ)」の嵐が吹き荒れました。

異様なほどの残忍さ

実母を死に追いやった者を許さない。

そう思うのは、子どもとして当然の感情でしょうが、人としての理性もプッツン飛んでしまった燕山君。

実母の廃位にかかわったとされる成宗の後宮2人を、宮中の庭で自分の目の前で惨殺します。一説によるとこの殺し方がスゴイ。このとき殺された後宮は、貴人厳氏と、貴人鄭氏という女性たち。厳氏には子供がありませんでしたが、鄭氏には2人の息子(燕山君には弟)がありました。この息子たちに厳氏と鄭氏を打たせたのです。つまり、息子に母親を打たせたわけですね。しかし「その打ち方が手ぬるい」、といって燕山君は自ら彼女たちを撲殺し、のちにこの息子たちにも賜薬を下して死に追いやります。

さらにこの騒ぎを聞いて止めに入った祖母仁粹(インス)大妃に、燕山君は頭突きを食らわせ、それがもとで仁粹大妃も亡くなったと伝えられています。

父の後宮たちに復讐を遂げた燕山君は、さらに実母を死に追いやった臣下を処刑し、すでに故人となっていた韓明澮(ハン ミョンフェ)らの墓を暴いて遺体の首を切るという残虐な刑に処します。このとき、子どもを含む彼らの家族も巻き添えとなりました。

約7か月間にわたった「甲子士禍」は、犠牲者の規模、刑罰の残虐さにかけても朝鮮王朝史に残るものとなったのです。

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