朝鮮王朝の王様たち

孝宗(ヒョジョン) 第17代王

1637年に起きた丙子胡乱(ピョンジョホラン)の講和条件として、清の人質となっていた鳳林(ポンニム)大君。兄の昭顕(ソヒョン)世子の急逝によって、王位を継ぐこととなります。

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反清主義を貫いた人質生活

 

昭顕世子鳳林大君は、丙子胡乱の後、人質として清(瀋陽)へ連行されていきました。

清を通して、西洋の思想や優れた文物を学び、西洋人とも積極的に交わった昭顕世子に対し、鳳林大君は全く逆の立場の反清主義をとっていました。兄の昭顕世子を守ることに徹し、さらに清の内情を探りながら本国に情報を伝える役割を果たします。

明が滅び、朝鮮へ先に帰還したのは昭顕世子でしたが、間もなく亡くなってしまいます。兄の訃報を受け取った鳳林大君は、急いで帰国、世子に冊封されたのです。そして、その4年後即位します。これが朝鮮王朝第17代王の孝宗(ヒョジョン)です。

北伐論とは

親清派の一掃

人質生活を送る間、清による明の討伐に従軍させられた経験を持つ孝宗は、明の滅亡を直接自分の目で見てきました。仁祖(インジョ)の親明事大主義を引き継いだ彼は、即位当初から反清ムードを広め、宋時烈(ソン シヨル)の北伐論に基づいて、北伐計画を推し進めます。

まず、親清派の立場をとる勢力を一掃します。当時、親清派の中心は、仁祖反正の功臣金自点(キム ジャジョム)でした。彼は、仁祖の後宮である貴人趙(チョ)氏と手を組んで、謀反を起こしますが、計画はあえなく露見、失敗します。孝宗はそれを機に、親清派の一掃に成功、その後、北伐のための本格的な軍拡に取り掛かります。

軍備拡張

まず、北伐の先鋒部隊となる御営庁(オヨンチョン)を改編強化し、王の護衛である禁軍を統合、兵士も約600人から約1000人に増員して自分の周辺を固めました。さらに、漢陽の外郭と江華島の兵力を増強して、都の安全を図りました。

北方の防備を強化できたのは、二度にわたるロシア軍との戦いがきっかけです。清は、建国当初からロシアの侵入に悩まされていました。彼らは次第に活動範囲を広げ、略奪を繰り返していましたが、清はこの掃討に失敗、朝鮮の鳥銃(火縄銃)軍の力を借りざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。朝鮮の朝廷はこれに応じ兵を派遣、見事ロシア軍を黒竜江(アムール川)以北へと、撃退します。この結果によって朝鮮の兵士の士気も上がり、以後、ロシア征伐を口実に朝鮮は山城を整備、軍拡をすすめて北伐のための準備を進めます。

しかし、あまりにも軍拡を推し進めすぎたため、たびたび財政難に陥り、そのツケが民衆に回ってきて生活を圧迫するという事態に陥ります。

結局、孝宗のこうした軍拡政策にもかかわらず、北伐はなされませんでした。朝鮮が準備に時間を費やした分、清も同じ時間を費やして国力の増強を図っていたからです。彼は、北伐を成し遂げることができないまま、40歳で世を去ります。それでも、彼が確立させた軍事力はのちの朝鮮社会を安定させるもととなったのです。

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