第11代王中宗の時代は、後宮を巻き込んだドロドロ劇が展開されます。なかでも、「乙巳士禍(ウルササファ)」「良才駅(ヤンジェヨク)壁書事件」は特に有名です。この二つの事件を理解しておくと、鄭蘭貞(チョンナンジョン)の悪女っぷりがさらに迫力を増すかもしれませんよ。
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乙巳士禍(ウルササファ)とは
世子冊封を巡る対立
王室には、子どもが多いものですが、嫡庶の別がありました。つまり、正室である王妃腹か、後宮である側室腹かで大きな差があったというわけです。
当然、世子になれるのはまず王妃腹の王子である「大君(テグン)」であることが第一条件です。中宗には、9男11女がありましたが、王位を継ぐ名分があったのは次の3人です。
- 2番目の正妃である章敬(チャンギョン)王后・尹氏の王子……世子=のちの仁宗
- 3番目の正妃である文定(ムンヂョン)王后・尹氏の王子……慶源大君=のちの明宗
- 後宮である敬嬪(キョンビン)・朴氏の王子……福城君
3番目の後宮腹の王子がなぜ候補に挙がるかというと、実は、「福城君」が中宗の長男だったからです。しかし、彼は政争に敗れて母親の敬嬪ともども自害させられます。
残ったのは、1と2。「世子」と「慶源大君」です。どちらも正妃腹の大君ですから、王位に就く資格は五分五分。儒教で重んじられる「長幼の序」がある分、世子のほうが優勢。ただし、世子には守ってくれる生母がすでになく、継母の文定王后に育てられていました。
そこで、文定王后と、彼女の兄弟たち(尹元老 ユンウォルロ・尹元衡 ユンウォニョン)は、世子を廃位させ、慶源大君を世子にする計画を立てます。しかし、これは章敬王后・尹氏の兄(つまり世子の伯父)尹任(ユンイム)らによって阻止されてしまいました。
これにより、世子の伯父である尹任(大尹)VS文定王后(小尹)とその兄弟たちという対立が激化します。
仁宗の死
やがて、中宗が亡くなり仁宗が即位します。まさに尹任ら大尹らの我が世の春到来。と、喜んだのもつかの間、仁宗が在位わずか9か月で亡くなると事態は急展開します。
小尹派は、尹任らが謀反を画策しているとでっちあげて大尹派を窮地に追いやります。その結果、尹任はもちろんのこと、その一派の士林たち、そして一部の王族らが処刑されるという粛清の嵐が吹き荒れます。1545年(明宗元年)におきたこの事件を、「乙巳士禍(ウルササファ) 」といい、朝鮮四大士禍の一つに数えられています。
こののち、尹元衡はさらに残りの士林勢力と大尹勢力を排除するため、「良才駅壁書事件」をきっかけに政敵を一掃、朝廷を掌握することに成功します。
良才駅(ヤンジェヨク)壁書事件
乙巳士禍で、文定王后の不倶戴天の敵尹任を自害に追い込んだ尹元衡は、このときに除くことのできなかった政敵を倒すために再び謀反をでっち上げます。「良才駅(ヤンジェヨク)壁書事件」は、「乙巳士禍」の2年後、1547年に起きた事件です。尹元衡の勢力が、尹任の一派の残党を追放するために起こしたといわれています。
1547年9月、京畿道果川の良才(ヤンジェ)駅※で、
「上には女王(文定王后のこと)が、下には奸臣が専横を極めているために、国はまもなく滅びるだろう」
という匿名の張り紙(壁書)が発見され、王に報告されました。尹元衡は、これは尹任の一派の残党が引き起こした事件だと主張、その一掃を進言します。もちろん、これを聞いた文定王后は明宗に尹任の残党勢力を排除するよう命じ、多くの人があいまいな理由で殺されていきました。そうしたなかに、実は中宗の庶子鳳城君(ポンソングン)がいました。実は、このときに「鳳城君が反逆に関係している」という偽証をしたのが、鄭蘭貞(チョン ナンジョン)だったといいます。
つまり、時代を大きく動かした事件の陰には、必ず鄭蘭貞の名前があるのです。真実は定かではありませんが、相当なワルで多くの人を苦しめたことは確かなようですから、関係があろうとなかろうと、アイツがやったに違いないという疑いがもたれることも多かったのかもしれませんね。
この事件で犠牲となった人たちは、文定王后、尹元衡・鄭蘭貞夫婦の死後、名誉を回復しました。この事件そのものもでっち上げであったとされ、流刑に処せられていた人たちも再び明宗の朝廷で登用されていくこととなります。
はてな
駅:12キロメートルごとに置いた馬を交換するところ。