朝鮮王朝の女たち

中宗の時代を彩った女たち|チャングム・ファンジニ・チョンナンジョン

政治的にはパッとしない中宗ですが、彼の時代には魅力的な女性たちが登場します。そのなかでもとくに有名な3人をご紹介しましょう。

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医女 大長今(テジャグム)

ドラマ「大長今 チャングムの誓い」の登場人物

大長今 チャングムの誓い」は、日本でも大変なブームになりましたね。あのドラマも今になって考えてみると、設定や展開に無理があるよなぁ~という部分も多いことに気が付きます。それはさておき、女性は史書には記録されないことが多いですが、あのドラマの登場人物のなかには、史実がわかっている人も意外といるんですよ。

チャンドク

まず、ドラマで済州島からチャングムの師匠として医術を教えた女性、チャンドク(長徳)は実在の女性です。でも、年齢的にはフィクションです。つまり、「チャンドク」という医女はいましたが、中宗の時代にあの若さ、というのにはちょっと無理があるかもしれません。というのもチャンドクは、成宗時代の人物なんですね。つまり、チャングムの若さを基準にすれば、けっこうな「おばあちゃん」ということになります。でも、当時『朝鮮王朝実録』に名前が載るほどの名医だったことは確かなようです。

シンビ

医女時代のチャングムを支えてくれた友人シンビ(信非)も、実在の医女です。慈順(チャスン)大妃の風邪を治療したことで、チャングムと一緒に報奨を与えられています。

チャングムの真実

チャングムが『朝鮮王朝実録』に最初に登場するのは1515年で、中宗10年のことです。その年の2月、中宗の継妃章敬王后は、王子(仁宗)を産みますが、産後の肥立ちが悪く翌3月に亡くなります。このとき、章敬王后の出産に立ち会い、その後の治療をしたのがチャングムです。このとき、チャングムは王后の死に対して、責任を問われます。司憲府(サホンブ)が、チャングムの処置が不適切だったからだと、追及したのです。それをかばったのが中宗でした。

ドラマでは、チャングムが医女になったときにはすでに文定王后になっていましたから、ドラマの設定は史実とはずいぶん異なりますね。

さて、そのあとに登場するのはシンビと大妃の風邪を治療して、報奨を与えられた時です。これがきっかけとなって、チャングムは「御医女(オウィニョ)」となり、中宗の主治医になります。中宗のこの処置には、かなり反発もあったようで、内医院提調(ネウィウォンチェジョ)の金安老などが、医女の医術は劣っているので、王の脈を診させることは適当ではないなどと訴えたそうです。しかし、中宗の信頼は揺るがず、自分の病気はすべてチャングムに任せていたといいます。これだけ医女に信頼を寄せるということは、史上まれなことだったようです。それが、ドラマに結びついたんですね。

中宗の死とともに、チャングムの記述も途絶えます。おそらく、中宗の死に対して何らかの責任は問われたと思いますが、ドラマのように幸せな人生を送っているといいですね。

女流詩人 黄真伊(ファンジニ)

『朝鮮王朝実録』には記載がない

短いドラマでしたが、とても美しい映像を楽しむことができたドラマ「黄真伊(ファン・ジニ)」。何度も映画化やドラマ化されている人物らしいですが、ハ・ジウォンさんの黄真伊に勝る女優さんはいないんじゃないかというくらい、はまっていました。黄真伊の詩もいくつか登場しましたが、それがうまくエピソードに盛り込まれていたと思います。もう、これが史実だろ、と思いたくなるような作品でしたね。

ところが、彼女は『朝鮮王朝実録』には記載がありません。当然と言えば当然なのですが、所詮市井の一般人、しかも女性ですので、王の正史である『実録』には載らないんですね。ということで、彼女に関しては、野史や伝説からの情報となります。実は、生没年すらもわかっていない人物です。ただ、当代一の学者といわれた徐敬徳(ソギョンドクや文化人・碧渓守(ビョクケス)らと交流していたとされているので、中宗の時代の人だということは確かなようです。

ちなみに、徐敬徳(ソギョンドク)や文化人・碧渓守(ビョクケス)は、ドラマにも登場しました。碧渓守は、黄真伊にフラれ続けたイケメンさんで、徐敬徳はドラマ終盤で黄真伊の精神面での師匠となった人です。

伝説の人なので、誇張も大きいかも。

彼女については、人の口から口へと伝わった記録しか残っていないので、どこまで本当なのかよくわからないというのが実際のところのようです。黄進士(進士は、下級役人)とよばれる両班と、陳という姓をもつ玄琴(ヒョングム)という女性の間に生まれた、母親は盲人だったなどと伝わっています。7歳で漢字を学び、9歳には漢文の古典を読み、漢詩を作っていたといいます。しかも、書画や伽耶琴(カヤグム:新羅時代から伝わる韓国の琴)の名手だったそうです。ドラマでは、お母さんが伽耶琴の名手でしたね。しかも相当美しかったそうですから、まさに才色兼備。

彼女に片思いした青年(この青年、ドラマではグンちゃんでした)が、恋煩いで死んでしまったが、その棺が彼女の家の前から動かなくなったというのも、有名な伝説のようです。なんでも、この事件がきっかけで妓生になる決心をしたのだといいます。

妓生になってからは、当然のことながら相当な人気ぶりで、多くの文化人が彼女と交流しました。そこでもさまざまな逸話が生まれます。徳が高いと言われたお坊さんの修行を断念させたり、王族の碧渓守の鼻をへし折ったり、ドラマ終盤に登場する徐敬徳を誘惑しようとしたりしたという話はとくに有名です。ただし、徐敬徳の誘惑だけは失敗し、逆に彼女が彼の学問と人柄に惹かれ、弟子入りすることになったのだとか。

40歳くらいで亡くなったといわれていますが、最後は「棺に入れずに、カラスなどの餌になるようにしてほしい」と遺言を残したといいます。諸行無常を地でいくような生き方ですね。でも、ソウルの近くにある長端(チャンダン)というところには今でもお墓があるそうです。

鄭蘭貞(チョンナンジョン) 文定王后を支えた女

事件の影に悪女あり

朝鮮王朝の長い歴史において、女王ともよばれた文定王后の覇権争いには、鄭蘭貞(チョンナンジョン)という女性の影があります。そもそも彼女自身が、相当な野心家でした。女性が正史に記録されることはほとんどないので、詳しいことはよくわかっていませんが、彼女はもともと賤民の身分だったようです。

経緯は定かではありませんが、文定王后の実弟尹元衡(ユンウォニョン)の愛妾となった彼女は、「灼鼠の変」や「良才駅壁書事件」などを主導し、文定王后に恩を売ったといわれています。

正妻を毒殺して、貞敬夫人へ

尹元衡には、糟糠の妻の金氏がいました。しかし、正妻の座を狙っていた鄭蘭貞は、尹元衡と共謀して彼女を毒殺し、正妻の座につきます。そして、臣下の妻としては最高の地位である「貞敬夫人(チョンギョンプイン)」にまで上り詰めるのです。

さらに、朝廷のし烈な戦いを文定王后や夫の尹元衡とともに戦い抜いた彼女は、商才もあったらしく、夫の権勢を背景に専売権などを得て莫大な富を築き上げます。尹元衡のもとには、さらにワイロもたくさん集まりましたので、まさに天下をとったようなもの。当時の権力者たちは、彼女の子どもたちと結婚させるために、先を争ったとすら言われています。

また、仏教に傾倒していた文定王后に、彼女は普雨(ポウ)という僧侶を引き合わせます。そのため、儒教的価値観が重視された朝鮮王朝において、一時的に仏教が隆盛することになりました。

最期は服毒自殺で幕を閉じる

おごれるもの久からず、とはよく言ったもので、それだけ専横と繁栄を極めたこの夫婦にも最期が訪れます。

文定王后が亡くなると、尹元衡は官職から追われ、鄭蘭貞とともに黄海道の江陰というところへ追いやられてしまいます。その後、いつごろ死んだのかは明らかではないようです。

しかしこんな話もあります。

鄭蘭貞は、自分たちを殺そうと国から役人が送られてきたら、あらかじめ知らせてくれるようにと役所の役人に頼んでおきました。ところが、別件でこの役所に国からの遣いがやってきます。慌てた役人は、これを鄭蘭貞に伝えてしまうのです。彼女は、ついに自分たちを殺しにやってきたと早とちりして、毒薬をあおって自殺したといいます。後に、これが実は誤解だったことを知った尹元衡は、嘆き悲しみ、鄭蘭貞のあとを追って自殺したのだそうです。

君主以上の富と権力をもって、国政をほしいままにした二人としては、あまりにもあっけない最期だったともいえるかもしれませんね。

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