朝鮮王朝の王様たち

景宗(キョンジョン) 第20代王

第20代の王景宗(キョンジョン)は、父親によって母親が殺されてしまうという悲劇を味わった王の一人。ただ同様のケースだった燕山君とは異なり、彼は悲運の王として知られています。

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第二の燕山君になるかもしれなかった王

 

景宗の生母は、張禧嬪(チャン・ヒビン)です。「トンイ」や「チャン・オクチョン」など、韓国ドラマ時代劇では常連の女性ですね。王妃になりながらも、結局最後は服毒自殺をさせられました。その毒を与えたのは景宗の父親である粛宗(スクチョン)です。母が自決させられた時、景宗は世子で13歳でした。今でいえば中学1年生。多感な時期にこんなショッキングな事件があったわけですから、なかなかハードな人生です。彼は、この事件後ずっと病気がちだったと言います。

子どもができなかったのは母親のせい?

「トンイ」でも、世子(のちの景宗)は病気のため子どもができないという設定がありましたね。実際、景宗は二人の妃を迎えましたが、子どもは一人もありませんでした。実は、この原因が母親の張禧嬪にあるという説があります。

張禧嬪は、服毒する直前に息子との面会を求めます。粛宗がそれを許可したところ、張禧嬪は突然、息子のそばに走りよると、いきなり彼の下焦(かしょう・東洋医学で膀胱の上にあり排泄を司るといわれる部分。早い話が男性の局所)をわしづかみにして、引っ張ったといいます。世子はその場で気絶、そのあと病になってしまい、男性としての機能が失われた、というのが顛末です。もっとも、張禧嬪の悪女ぶりを誇張するために意図的にでっちあげられたエピソードなのかな、という感じがしますけれども。

激闘!!老論(ノロン)VS少論(ソロン)

景宗の在位は4年間でした。目立った政治的な実績のない王様なので、ドラマなどでもほとんど取り上げられることはありません。それは、彼が病弱だったということもあるでしょうが、朝廷では激烈な勢力争いが繰り広げられており、その政争のために満足な政治が行えなかったというのもあるかもしれません。

派閥争いに翻弄される兄弟

粛宗は、その晩年、少論派を排して老論派を重用しました(丙申処分・1716年)。その翌年、世子が病弱で子どもができない体であるという理由から、老論派の領袖(派閥のトップ)に世子の異母弟である延礽君(ヨニングン)を後嗣にするよう頼みます。さらに、同年、延礽君に世子代理聴政(世子の代わりに実際の政治を学ばせること)も命じました。

まず「弱みに付け込んで世子を廃嫡にしようとしているのではないか」と、少論派が反発をはじめます。この結果、世子=景宗を支持する少論派と、延礽君を指示する老論派の対立が激しくなっていくことになります。

ヒートアップしていく対立

やがて老論派を重用した粛宗が亡くなり、1720年に景宗が即位します。もちろんその当時は、老論派が実権を握っていました。ですから、老論派は、景宗の健康状態を理由に、「王位継承問題」を申し立てます。早い話、万一の時に備えて早々に延礽君を世弟(セジェ)にしておこうというのです。

景宗は、自分を支持してくれている少論派の反対にもかかわらず、老論派の主張を受け入れ、延礽君を世弟に冊封(任命すること)しました。ところがその2か月後、老論派はさらに景宗が病弱で政治を行うことが難しいという理由から、世弟延礽君に代理聴政を行わせるべきだと主張します。つまり、実質的に景宗から政治的実権を奪おうとしたわけです。

もちろん、少論派はこれに猛反発。病気を理由に一時は世弟延礽君の代理聴政を受け入れた景宗でしたが、結局取り下げます。しかし、この後も代理聴政を命じたり、取り下げたりを繰り返したため、老論派と少論派の不毛な党争は激しさを増していくことになりました。

やがて、し烈な戦いを制して政権を独占したのは少論派ですが、それもつかの間。景宗が在位わずか4年で亡くなると、延礽君が即位、今度は老論派の勢力が息を吹き返していくのです。

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