朝鮮王朝の王様たち

太宗(テジョン) 第3代王

韓国ドラマ時代劇のなかでは、苛烈な王として描かれることが多い太宗。敵対する勢力はもとより、兄弟や家族をも容赦なく処断したことで知られていますが、朝鮮王朝600年の礎を築いた王ともいえます。

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太宗 王権強化に尽力した王

太祖(テジョ)の五男李芳遠(イ バンウォン)は、第一次王子の乱と第二次王子の乱を制し、1400年に即位します。即位前から政治改革をすすめていた彼でしたが、王位に就くとさらにさまざまな制度改革に着手し、王権を強化していきます。韓国ドラマ時代劇で描かれる風景は、ある意味彼によって確立されたものと言えるかもしれません。

大胆な政治改革を断行

太宗は、それまでの高麗王朝時代の名残を取り除き、王権を強化するための政治改革を推し進めていきました。韓国ドラマ時代劇ではわりとこのあたりが焦点になることも多いので、箇条書きにまとめておきますね。

  1. 王族や功臣がもつことのできた私兵を廃止して、兵権を掌握しました。太宗のクーデターが成功したのは私兵をもっていたからです。逆の言い方をすれば、私兵を抱えている者は謀反を起こすことが可能というわけですから、これは取り上げないといけませんよね。
  2. 国王の秘書役「承政院」を設置しました。韓国ドラマ時代劇で、王様によく呼び出しされて命令を受ける人「都承旨」は、この承政院の長です。
  3. 議政府を設立し、行政の仕事を6つに分け(六曹)、それぞれの部署が、王に直接報告を行うようにして、議政府の権限を大幅に縮小させました。「王⇔議政府⇔六曹」という状態だと、王様の意見がそのまま六曹に伝わりにくいですよね。これが、「王様⇔六曹」なら、王様の意見がダイレクトに伝わります。これによって王権と中央集権化を一気に進めることができました。
  4. 刑罰の制度を整え、義禁府を設けましたた。義禁府は、最高の司法機関であり、かつ国王直属の親衛隊のような役割もあり、国事犯(謀反など)を担当しました。義禁府の兵たちが、宮廷のなかでウロウロするシーンが多いのはこうした役割もあったからなんですね。
  5. 開城(太祖の時代に移された都)から、漢城へと都を移し、以後ここが政治と文化の中心地となります。

号牌法(ホペホプ)と申聞鼓(シンムンゴ)

韓国ドラマ時代劇では、ちょくちょく見かける小さな木札。主人公が逃亡する際には偽造したりあるいは武器にしちゃったりと、物語を進めるうえで意外と重要な役割を果たしているときもあります。あの小さな木札を「号牌(ホペ)」といいます。簡単に言うと身分証です。16歳以上の男子に携帯を義務付けたもので、名前と年齢(生年の干支)を刻み、官庁の烙印を押してあります。これによって、戸口と人口を把握しようとしたわけですね。

号牌

朝鮮後期につくられた号牌(国立中央博物館)

そのほかにも彼は、奴婢制度を新たに整備しています。また、「申聞鼓(シンムンゴ)」と呼ばれる太鼓を設置し、民衆が訴えを起こすときに、自由に請願できるようにするなどして、建国後間もない社会を落ち着かせることにも力を尽くしました。「申聞鼓(シンムンゴ)」は、ときどき韓国ドラマ時代劇の中にも描かれることがありますよ。日本の目安箱のようなものでしょうか。ただ、どれだけの効果があったのかはちょっとわかりません。それでも、太宗は、高麗時代のように功臣と宰相といった一部の権力者が中心となった政治を改め、民衆の生活を安定させることで国の安定と王を中心とした国づくりを目指しました。政治的な理想はとても高かったんですね。

チャングムも太宗のおかげです

大長今」以降、韓国ドラマ時代劇の中では当然のように描かれる医女ですが、この制度を定めたのも実は、太宗です。太宗は、病人の治療のために初めて若い女性を「医女」として選抜し、医師として養成することで婦人病の治療に当たらせることにしました。現在でも、婦人科の受診にはちょっと勇気がいるという女性は多いですよね。当時は、そうした観念がもっと強かったですから医者の診察も受けられずに命を落とす女性が多かったわけです。そうした女性たちのために、医女の制度が整えられました。太宗がいなければ、チャングムもいなかったというわけです。

義兄弟にも下した苛烈な処断

父親との断絶

第一次王子の乱で、世子李芳碩(イ バンソク)が太宗(芳遠)に殺されたことを、太祖は病床で報告されたといいます。この事件で傷心した太祖は、その翌月には王位を次男定宗に譲り、上王(サンワン)となりました。その後、太宗(芳遠)が王位に就くと太上王(テサンワン・生存中の先々代の王)と呼ばれるようになりました。しかし、太祖は太宗(芳遠)に玉璽(ぎょくじ・王の印)を渡さぬまま咸州(咸興)へ移ってしまいます。このとき、太宗(芳遠)がご機嫌伺に使者を送ると、そのたびごとにその使者が殺されるという事態に陥るほど、太祖は太宗(芳遠)を嫌悪したといわれます。使者が死者になるというシャレにならない状況。これを「咸興差使(ハムンチャサ)」と呼び、行ったままなかなか帰ってこない使いの例えともなりました。腹違いとはいえ、自分の子どもたちが殺しあうことになってしまったわけですから、太祖の気持ちもわからないではありませんが、父親に拒絶されることになった太宗(芳遠)もちょっとかわいそうですね。

太宗の後宮

太宗には、正妃である元敬(ウォンギョン)王后・閔(ミン)氏と、後宮には9人の妃がいました。元敬王后との間の四男四女を含め、全部で29人もの子どもがいたそうです。元敬王后は、即位前の太宗を助け、その即位にも大きく貢献しましたが、王妃となってからは、次第に太宗とは不和となっていきます。外戚(王妃の実家である閔氏)への権力集中を防ぎ、王権を強化させたい太宗は多くの後宮を娶りました。これに対して王妃は嫉妬と不平をあらわにし、太宗との間がぎくしゃくし始めるのです。

閔無咎(ミン ムグ)兄弟の獄

そもそも太宗が王位に就くことができたのは、元敬王后の聡明さと、その実家である閔氏の財力・権力という支援があったからでした。それにも関わらず、太宗と元敬王后との仲は次第に険悪なムードになっていき、挙句には閔氏は警戒される対象になっている……。これでは、閔氏一族も不満が募るというもの。

世子であった護寧(ヤンニョン)大君に対して、元敬王后の父・閔霽(ミンジェ)閔無咎(ミン ムグ)ら元敬王后の兄弟たちは、こうした不満を漏らしてしまいます。これがきっかけとなって、謀反の疑いをかけられることになり、獄事へと発展してしまうのです。はじめは、地位や特権を取り上げて流刑にするだけにとどめていた太宗ですが、閔無咎(ミン ムグ)ら兄弟は、流刑地でも反抗的な態度をとっていたため、結局太宗に自決を命じられることになります。さらに、残された兄弟が兄たちの無念を訴えると、太宗は彼らにも賜薬を下し、その妻子も辺境に追放してしまいました。

こうした事件のなか、当然のことながら元敬王后と太宗との間にはさらに亀裂が入っていきます。一時は、王妃の座を追われそうな状況にまでいたりましたが、子どもたちに及ぼす影響を考え、太宗は彼女を廃妃にはしませんでした。

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