朝鮮王朝の王様たち

正祖(チョンジョ) 第22代王

陰謀の渦に何度も飲み込まれそうになりながら王位に就いた正祖(チョンジョ)は、文芸復興を推し進めながら革新的な政治を目指して突き進んでいった王様です。韓国の人たちにも人気がある王様ですよ。

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父の非業の死

正祖の父、荘献(チャンホン)世子(のち、思悼(サド)世子)は、政争の犠牲になった人物です。彼が、米びつに閉じ込められて殺されてしまうという奇怪な事件の真相は、いまだ謎とされていますが、そのためなのか韓国ドラマ時代劇では、おなじみのシーンともなっているかもしれませんね。

正祖は父の死後、夭折した孝章(ヒョジャン)世子英祖の長男)の養子となり、世孫として英祖の後を継ぐべく育てられます。しかし、父を死に追いやるのに主導的な役割を果たした僻派(ピョクパ)の陰謀に巻き込まれて、何度も命の危険にさらされました。そのため彼は、「皆有窩(ケユワ)」という読書室に籠り、清の乾隆帝(けんりゅうてい)文化に熱中して政治的な発言を慎んでいました。

苦しい時代をじっと耐え、英祖の死去によって24歳の即位します。このとき24歳。意欲に満ちた青年王の誕生です。

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僻派:主に老論系の人たち。「時流を無視して党論にばかり偏っている」という意味でついた名称。正祖の父荘献(チャンホン)世子(のち、思悼(サド)世子)の死を当然のことと考えている人たち。

はてな

乾隆帝:清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出した皇帝として知られている。10回にわたる遠征や、さまざまな編纂事業や宮廷画家を重用するなど、文芸・芸術的事業を展開した。ちなみに、中国の人気ドラマ『宮廷の諍い女』に登場して、最後に即位するのは、この皇帝。

正祖を支えた洪国栄(ホングギョン)と奎章閣(キョジャンガク)

洪国栄の台頭

正祖は、即位すると直ちに父の仇討ちと党派の排撃に着手し、一方で新しい人材を大勢採用して親衛勢力を形成し始めます。

まず、自分の即位を妨害した勢力を失脚させ、即位前から自分を支え続けてきた洪国栄(ホングギョン)を電撃的に起用し、都承旨に昇格させてしまいます。また、精鋭を引き抜いて宿衛所(スギソ)を創設、王宮を護衛するようにしてその隊長に洪国栄を兼ねさせます。

こうして正祖の信任を受けた洪国栄は、次第に大きな力を持つようになり、地方も中央も人事権は彼が握るまでになりました。すべての役人が、彼の命令によって動くようになったのです。しかし、洪国栄の天下はそう長くは続きませんでした。正祖自身が警戒をしていたこともありますが、洪国栄が自滅したのです。洪国栄は、正祖と孝懿(ヒョイ)王后との間に子どもが生まれないのを口実に、自分の妹を後宮(元嬪(ウォンビン))にしましたが、間もなく彼女は病死してしまいました。さらに洪国栄は、孝懿王后の暗殺を謀りこれが露見してしまいます。これにより家産を没収されたうえ、故郷に追放されてしまうのです。

奎章閣での人材育成

正祖は、洪国栄に政治を預けている間、実は奎章閣(キョジャンガク)の拡大を図り、人材を集めていました。正祖は、奎章閣を通して人材を集め、外戚や宦官などの謀反、横暴を抑えて新しい革新政治を試みようとしていたのです。特に、奎章閣に検書官(コムソグァン)という官職を設けて、庶子出身の学者を配置して新しい風を起こしました。それまで、能力があっても出世の道を閉ざされていた庶子に朝廷に進出できる新しい道を開くことで、社会の雰囲気を家柄や党派中心ではなく、実力を重んじる方向へと導こうとしたのです。

こうして洪国栄の追放と入れ替わるようにして、親政の雰囲気を整えた正祖は本格的に奎章閣の拡大事業に取り掛かります。正祖は、奎章閣に弘文館や承政院などの機能を次第に移しつつ、本格的な文治政治を推進して人材を養成していきました。そうした人材のなかに、丁若鏞(チョン ヤギョン)がいます。

こうした政策は、中人以下の階層の人たちにも大きな影響を与え、さまざまな文学活動もおこるようになります。社会では、丙子胡乱以降の清を蛮夷とみなし、明に対する事大思想も薄れつつありました。そうした枠から抜け出て、独自の文化へまなざしが向けられるようになっていたのです。まさに、正祖の時代は、朝鮮王朝時代のルネサンス期ともいえます。このことは、やがて朝鮮民族としてのアイデンティティの構築へとつながっていきます。

それでも党派の対立は終わらない

正祖は、奎章閣を中心とした政治を行い、英祖の蕩平策(タンピョンチェク)を継承していました。そのため、党派間の争いにも変化が生じます。

まず、英祖時代に形成された外戚中心の老論(ノロン)派は、最後まで党論をかたくなに守りながら「僻派」として残ります。一方、正祖の政治路線に共感した南人(ナミン)派と少論(ソロン)派、そして一部の老論派が「時派(シパ)」を形成し、この二者が葛藤する新しい様相へと展開していきました。

やがて朝廷は、時派を中心にして動くようになりますが、これを危機的な状況と警戒した僻派は、より一層団結するようになります。今後は、革新的な時派が優勢のように見えましたが、カトリック教徒の迫害事件をめぐって、僻派が徐々に勢力を回復していきます。そして、正祖の死によって南人派のほとんどが追放され、時派も大部分が政局から排除されることになるのです。

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時派:「時流に迎合する」という意味でついた名称。主に南人系列で、正祖の父荘献(チャンホン)世子(のち、思悼(サド)世子)の死に同情する人たち。

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