朝鮮王朝の王様たち

哲宗(チョルチョン) 第25代王

朝鮮王朝第25代王の哲宗(チョルチョン)は、とつぜん、歴史の舞台へ引っ張り出されてスポットライトを浴びることになった王です。

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直系が絶えた時、どうする?

江戸時代、「徳川将軍に直系の血族が絶えた場合、後継者は御三家(尾張・紀伊・水戸)から選ぶこと」、なんていうルールがあったことを習いましたよね。では、朝鮮王朝ではどうだったのでしょうか。

直系の後継者がいない場合には、弟や甥にあたる人物に王統を継がせるのがルールでした。先祖祭祀において、立場が上の者が下にある者に対して、祭祀を行ってはならないという規則があったからです。つまり、先代の王が、自分にとって弟であったり、甥であったりするようなことはあってはならない(=先王の兄や伯父が王位についてはならない)ということになるわけですね。

ところが、これを無視して即位した(させられた)のが第25代王哲宗(チョルチョン)です。

安東金氏の専横ここに極まれり

純祖(スンジョ)時代から始まった安東金氏の勢道政治は、哲宗(チョルチョン)の時代に絶頂期を迎えます。それは言い方を変えると、役人の不正がはびこり、民衆が塗炭の苦しみを味わっていた時代でもありました。

純祖の妃だった純元(スヌゥオン)王后金氏は、孫の憲宗(ホンジョン)が後継ぎを残さないままに亡くなると、素早く動きます。憲宗の母である神貞(シンジョン)王后趙氏の一族が王位継承に関わってくることを恐れて、後継者指名において優位に立つ必要があったからです。つまり、ここでも安東金氏と豊壌趙氏の勢力争いがあったというわけですね。

純元王后とその一族は、自分たちの権力を維持するために王家の規則を無視して、憲宗の七親等の伯父にあたる人物が適当と判断、彼を迎え入れて即位させてしまいます。「七親等の伯父」とか、もはや赤の他人も同然なんでは……?というツッコミをしたくなりますよね。文章ではよくわからないので、系図で見てみましょう。

哲宗・憲宗をめぐる血縁関係

かなり前の世代まで遡ることになっているのがわかりますね。

実は配流になっていた王族

系図で見てみると、哲宗は、正祖(チョンジョ)の異母弟の血筋であることがわかります。実は、正祖の即位までにはさまざまな妨害がありました。荘献(思悼)世子の死に関わった勢力は、正祖が即位したときに立場が悪くなると考えて、別の王子を推戴しようと画策しました。ところが、これがバレてしまい正祖の異母弟で末弟だった恩全(ウンジョン)君は自決し、恩彦(ウノン)君恩信(ウンシン)君は、済州島に流されてしまいます。その後、恩信君は済州島で病死し、恩彦君はさらに江華島へと流されます。

恩彦君には全渓君のほかに2人の息子がありましたが、この二人もさまざまな陰謀の巻き添えとなって、死んでしまいました。全渓君はかろうじて生き延びましたが、3人の息子を残して46歳で亡くなります。ところが、この3人の息子のうち、長男は陰謀に巻き込まれて自決させられてしまいます。まるで、不幸の雪だるま状態。

かろうじて生き延びた次男と三男は、江華島で貧農となって不遇な日々を送っていました。

ところが、この三男元範(ウォンボム)のところに、突如大王大妃から命を受けた使者がやってきます。急遽、徳完(トグァン)君に封じられ、憲宗の死から3日後に即位するのです。これが、第25代王の哲宗です。

突然、降ってわいた王位でしたが、そもそも貧農として暮らしていた人物です。学問も満足ではないという理由で、大王大妃の垂簾聴政をうけ、その後は安東金氏の勢道政治が続きます。哲宗は、貧民救済や被災民の救済に関心をもって積極的に取り組みましたが、学問や政治的経験の乏しさから、安東金氏の勢力を抑えることはできず、不遇の王として生きます。しかも、邪魔になると思う者がいたら、その者を排除するのをためらわない安東金氏の勢いを前に、自身の命も危ういと感じるようになった哲宗は、次第に国事もおろそかになり、酒と女に溺れるようになっていきます。やがてそのために健康を悪化させてしまい、32歳の若さで亡くなりました。

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