朝鮮王朝の女たち

中宗の後宮と灼鼠(しゃくそ)の変

ご本人よりも、周りの人物が濃すぎる第11代王中宗。その王妃と後宮について、あらためてご紹介しましょう。高官を巻き込んだ後宮の大バトル「灼鼠(しゃくそ)の変」は、スゴイ事件なんですよ。

Contents

3人の王妃と7人の後宮

端敬(タンギョン)王后・慎(シン)氏と「チマ岩の伝説」

12歳で即位前の中宗(当時は晋城大君)と結婚し、中宗の即位にともなって、端敬王后となります。しかし、彼女の父親が燕山君の義兄という立場であったため、クーデターの功臣らによって廃位されてしまいます。中宗は、彼女の廃位に抵抗しましたが、結局押し切られてしまいました。

彼女への恋慕の情を抑えがたく、中宗は高い楼閣にのぼって彼女のいる実家のほうを眺めたといいます。それを聞いた慎氏(または慎家の人々)は、慎氏の薄紅色のチマ(スカートのような伝統衣装)を家の裏山の岩に広げて置いたといいます。中宗は、そのチマを眺めながら愛しい人を偲んだという、「チマ岩」の伝説は有名です。実際に、景福宮から山を眺めてもチマなんか見えないとは思いますが、王と王妃の悲恋ということで、民衆にはウケたのかもしれませんね。

でも、そんなに彼女を思っていた中宗も、やがては慎氏を忘れたといいます。

章敬(チャンギョン)王后・尹(ユン)氏

端敬王后・慎氏が廃位されたのち、淑儀から王妃に冊封されました。中宗との間に、1男1女があります。王子は、のちの仁宗です。1515年、産後の肥立ちが悪く24歳の若さで亡くなりました。

文定(ムンジョン)王后・尹(ユン)氏

章敬王后・尹氏の死後、中宗の3人目の王妃として迎えられました。中宗との間には、1男4女があります。王子は、のちの明宗です。500年の朝鮮王朝でも「稀代の悪后」と呼ばれる王妃です。

7人の後宮

中宗は、さらに9人の後宮をもち、彼女らから7男6女を得ます。

中宗の9人の後宮たち

  • 敬嬪朴氏
  • 熙嬪洪氏
  • 昌嬪安氏
  • 貴人韓氏
  • 淑儀洪氏
  • 淑儀李氏
  • 淑儀羅氏
  • 淑媛李氏……ちなみに『大長今』のヨンセンのモデルらしいですね。
  • 淑媛金氏

さて、ここで注目したいのは一番上にいる「敬嬪(キョンビン)朴(パク)氏」です。

中宗の後宮 敬嬪(キョンビン)朴(パク)氏とは?

彼女は、燕山君が大暴れしていたときに「採青女使(早い話が、美女狩り)」の抜擢によって王宮入りしました。ところが、中宗反正(クーデター)によって彼女の状況が激変します。

中宗反正の功臣であった朴元宗(パク・ウォンジョン)は、自らの勢力の拡大と維持のために、親類縁者の中から適当な人物を後宮に入れようとします。このときの彼の目に留まったのが、すでに王宮に入っていた彼女でした。遠縁の娘であることを知った朴元宗は、ただちに彼女を養女として中宗の後宮に送り込みます。

当時の中宗は、端敬王后慎氏と引き離され、その寂しさを敬嬪朴氏へと向けたのです。寵愛厚く、彼女は1男2女をもうけます。敬嬪朴氏が中宗の長男を生んだことにより、彼女は確固たる地位を築き、さらに故郷の実父や実兄もその恩恵を被り中央で任官されました。章敬王后尹氏がお産のために早逝すると、もはや中宗は、王妃を迎える気にならず、王妃の座は3年間空くことになります。

もちろん、その間中宗は、敬嬪朴氏を王妃にしようとしましたが、彼女の出自が低すぎたため王妃の条件には合わなかったのです。

しかし、それで終わるような彼女ではありませんでした。自分の産んだ王子福城君(ポクソングン)は、なんといっても中宗の長男です。彼女は、中宗の寵愛を利用して、朝廷での影響力を拡大させていきます。そしてついに、中宗との間に王子をもうけた文定王后との大バトルが勃発していくのです。

仁義なき女の戦い「灼鼠(しゃくそ)の変」

事件の幕開けは世子の誕生日

1527年、当時、世子だった仁宗の誕生日。不気味な事件が、宮廷を震撼させます。

東宮の庭の銀杏の木に、大きなネズミの死骸がぶら下がっていました。しかも、ネズミは4本の足と尻尾が引きちぎられており、口・目・鼻が火であぶられていました。さらに、景福宮の大殿(王がいるところ)の寝室からも焼けたネズミが発見されたのです。実は、仁宗は「子年」生まれでした。彼も、このネズミのようになるという呪いだったわけです。

宮廷をひっくり返すような大事件に、朝廷の大臣たちはどんなことをしてでも犯人を見つけ出さなければならない!と息巻きます。まあ、当然ですね。中宗はこれを穏便に済ませようとしましたが、大臣たちは引き下がらず、結局、敬嬪朴氏、昌嬪安氏、淑媛金氏らの後宮たちと、彼女たちに仕える侍女たちが尋問を受けます。しかし、結局何も明らかにすることはできませんでした。

迷宮入りに見えたとき、大妃(中宗の生母)の貞顕(チョンヒョン)王后・尹(ユン)氏が、事件の容疑者に対する教旨を下します。

「大殿のネズミについては、敬嬪朴氏を疑わざるを得ない」

当時大殿にいたということが根拠になったようですが、まさに鶴の一声です。王室で最も権威のある大妃(基本的に王の母親)が「白だ」といえば、カラスも白なわけです。こうして敬嬪朴氏は、犯人に仕立て上げられて廃庶人(身分をはく奪されて庶民になること)となり、王宮から子どもたちとともに追い出されます。やがてほどなく、毒薬によって死を賜るのです。

こうして文定王后の最大のライバルが、思わぬ形で姿を消しました。

事件の影に文定王后あり?

この事件は、のちに権力者金安老(キム・アンノ)が、政敵を始末するために息子を使って引き起こした事件であるということが明らかになりました。しかし一説によれば、この事件は、自分の息子を王位につけるためにも、邪魔な敬嬪朴氏を始末したいと考えていた文定王后に近づいた鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)が仕組んだことではないかといわれています。鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)とは、朝鮮3大悪女の一人に数えられる人物。実は、文定王后の弟尹元衡(ユン・ウォニョン)の側室でした。彼女が正室になろとうして、文定王后のために尽力したものではないかというのです。

真偽は歴史の闇の中ですが、まさに「愛憎劇&復讐劇」の舞台として、中宗の後宮は韓国ドラマ時代劇には格好の素材を提供することになりました。

 

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