歴史を知ればドラマはもっと面白い!

韓国時代劇の王様たちとその時代

朝鮮半島の歴史的な地名

韓国ドラマ時代劇には、当然ですがいろんな地名が出てきます。日本と同様に現在の地名とは異なることも多いですよね。どこそこに流刑になっただの、どこそこから来ただのと言われても、ピンとこないというよりも、「あ~、あのあたりね」とわかったほうがドラマももっと面白く感じられると思いますよ。

韓国ドラマ時代劇によく出てくる地名【7選】

そんなにたくさん覚えていることはないと思うのですが、以下にあげる場所はよくドラマにも出てきますので覚えておくといいかも♪

 

  • 漢陽(ハニャン):いわずと知れた朝鮮王朝の都です。現在のソウルですね。わりと海岸部に近いことがわかります。ここを流れる河、漢江もよく出てきますね。漢江の渡し場である「麻浦(マポ)」もよく出てきます。余計なことですが、「はにゃん」という猫ちっくな名前がちょっとカワイイです。高麗王朝の都、開城(ケソン)は、ここより少し北にあります。
  • 江華(カンファ):流刑地としてよく出てきます。王族など、わりと身分の高い人が流されてるような気がします。江華島事件など、列強が進出してくるときにはこのあたりから接近して来ました。
  • 済州(チェジュ):韓国の歴史ドラマでは流刑地の代名詞のような場所ですね。日本でいうと江戸時代の佐渡島みたいなところでしょうか。「大長今」や「キム・マンドク」など、たくさんの作品に登場します。
  • 金剛山(クムガンサン):朝鮮半島で最も美しいといわれる山です。「イ・サン」でソンヨンが金剛山の四季を描いたシーンが印象的でした。
  • 水原(スウォン):正祖が、遷都を計画していながら成しえなかった幻の都です。華城は、世界遺産に指定されています。
  • 義州(ウィジュ):最北の国境の街なのでわりと多く出てくる地名です。「トンイ」が流れに流れてたどり着き、ここから根性で戻ってきました。と、考えるとなんとなくちょっとウソっぽく感じます。壬辰倭乱のとき、宣祖が避難したのはここです。
  • 対馬(つしま):徳川幕府と朝鮮王朝との橋渡しで利を得た対馬藩。通信使や商人などが中継した場所です。倭寇の拠点とも考えられて、襲撃されたこともあります。

朝鮮王朝時代の行政区分

韓国の歴史ドラマは、宮廷モノなら大抵、宮殿の中での話ですし、せいぜい都の「漢陽(ハニャン)」ぐらいしか地名が出てこないのでいいのですが、時々、現在とは違う地名が出てくるので???となることがあります。政争で敗れた人たちは、必ずどこかに流されるので、ある程度地名は知っておいたほうがいいですよね。もっとも、距離感を知ると、なんだかウソ臭い感じもしてきてしまうものですけど。とりあえず、これが李氏朝鮮時代の行政区分です。ご参考までに。

漢城(漢陽)って、どのあたり?

朝鮮王朝の都は、「漢城(ハンソン)」といいます。遷都当初は「漢陽(ハニャン)」といいました。今のソウル特別市の景福宮を中心とした地域です。これを現在の地図に当てはめてみると意外と狭いなという気がしますが、外国人が、かつての「江戸」を、現在の「東京都」と思っているようなものかもしれません。Googleマップのうえに、だいたいの漢城の範囲を重ねてみました。

東西に5キロメートル、南北に7キロメートルくらいの楕円形をしています。中国や日本のように、方形(いわゆる碁盤の目)になっていないのが面白いですね。これは、風水の考え方を重視してつくられたからなんだそうです。太祖(李成桂・イソンゲ)は、鄭道伝(チョンドジョン)に命じて、高麗の都「開城」から1392年にこの地に遷都しました。それ以来ずっと、国の中心であるわけですね。

漢城の城門

漢城は、太祖(李成桂 イ・ソンゲ)によって造られました。太祖は、鄭道伝(チョンドジョン)に命じて、漢城の地形を調べさせ、「白岳山(ペガクサン)」「駱山(ナクサン)」「木覓山(モンミョンサン)」「仁王山(イヌワンサン)」を結ぶ総延長19キロメートルに及ぶ城壁を築きあげました。このときは、わずか50日に満たない工事期間の突貫工事だったため、水害などによって崩れてしまう箇所も多かったといわれます。その後、改修と増築が行われ、「四大門(サデムン)」と「四小門(サソムン)」も完成します。

「四大門(サデムン)」とは、以下の4つの門のことです。

  • 東大門:「興仁門(フンインムン)」または「興仁之門(フンインジムン)」
  • 西大門:「敦義門(トンイムン)」
  • 南大門:「崇礼門(スンネムン)」
  • 北大門:「粛靖門(スクチョンムン)」

東大門や南大門は、観光スポットとしても人気がありますよね。

四小門(サソムン)は、以下の4つです。

  • 北東:「恵化門(ヘファムン)」または「弘化門(ホンファムン)」
  • 南東:「光熙門(クァンヒムン)」
  • 南西:「昭徳門(ソドムン)」
  • 北西:「彰義門(チャンイムン)」

これらの城壁は、何度も増改築が繰り返されて堅固なものになっていきました。そして朝鮮王朝の末期まで、首都の外壁としての役割を果たすこととなるのです。一部は、現在でも残っていますので、実際に当時の様子を伺うことができますよ。

王によって宮殿が違う

王や王妃、美しい宮女や後宮、士大夫、武官……と、時代劇では、華やかな王宮の様子が描かれますね。テレビなどでもよく見る「景福宮」が、朝鮮王朝の王宮としては有名ですが、実は時代によって使われていた宮殿が違います。第9代成宗が昌徳宮を正殿として使ったことはありますが、それ以外の王様は、基本的に第14代の宣祖まで、「景福宮」です。そして、それ以降の王は、「昌徳宮」となります。

景福宮(キョンボックン)

漢城(漢陽)に遷都した当初から、宮殿として使われたのが「景福宮」です。約200年に渡って正宮として使われました。「景福」とは、「王の偉大な恩恵と善良な政治によって、民が何の心配もなく生きていく」という意味で、中国の『詩経』にある言葉です。しかし、その名前とは裏腹に、景福宮は、王族や官僚たちが血で血を洗う闘争を繰り広げる王宮となります。

さらに1592年、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役・朝鮮では「壬辰倭乱」)によって、漢陽が陥落、その際に焼失します。その後は、朝鮮末期、高宗の時代になるまで再建されませんでした。現在の建物は、19世紀末に大院君によって再建されたものです。現在でも、考証に基づいて復元工事が進められています。今後、どんな姿で蘇るのか、楽しみですね。

昌徳宮(チャンドックン)

1405年に、景福宮の離宮として建てられた宮殿です。現在でも創建当時の俤を残しており、世界遺産にも指定されています。

1592年「壬辰倭乱」当時の王は、第14代宣祖。彼は乱後、「景福宮」ではなく、同様に焼失してしまった「昌徳宮」の再建に着手します。昌徳宮は、1610年の光海君の時代から1868年に高宗が再建された景福宮に戻るまでのおよそ260年間、最も長く王が住んで政治を行った宮殿です。昌徳宮の正門「敦化門」は、大韓民国では最も古い門であるといわれています。さらに、正殿の仁政殿、国王の執務室である宣政殿、王と王妃の寝殿大造殿など、多くの木造建築が現存しています。

昌慶宮(チャンギョングン)

もともとは、1418年に世宗がお父さんの太宗のために立てた「寿康宮」がありました。ここに、成宗が1483年、お祖母ちゃんの大王大妃とお母さんの大妃のために、新たに建てたのが昌慶宮です。かなり大規模なものだったといわれていますが、景福宮同様に、「壬辰倭乱」のときに焼失し、光海君の代に再建されました。

その後、17~18世紀におきた火災で再び焼失します。1834年純祖の時代に再建されたものの、1907年以降、日本政府がここに動物園と植物園を建設しました。その際に、建物の一部が取り壊されてしまいます。1980年代に入って、動物園を移動させて、昌慶宮を復元する計画が立ち上がり、1986年に竣工しました。

徳寿宮(トクスグン)

もともとは世祖の長男で夭折した懿敬世子(ウィギョンセジャ)の長男、月山大君(ウォルサンテグン)の邸宅でした。世子の死によって、世子嬪の韓氏(のちのインス大妃)は、2人の息子とともに宮殿の外で暮らすこととなりました。その際に、王であった世祖が、嫁と孫のために建てたのがこの家です。やがて、月山君の弟である成宗が即位、母とともに宮殿へ入ったので、その後は月山大君の邸宅となったわけです。

「壬辰倭乱」で、義州へ逃れた宣祖が戻ってきて臨時に住み、続いて光海君も住みました。その際に、「慶運宮(キョンウングン)」と名付けられます。その後、王朝末期に、高宗が皇帝位を退いてからこの宮に住むようになったため、後を継いだ純宗が、高宗の長寿を願って、「徳寿宮」と名づけたのだそうです。

慶熙宫(キョンヒグン)

光海君によって1616年に建てられた宮殿です。最初は、「敬徳宮」という名前でしたが、英祖のときに、「慶煕宮」と名前が変わりました。

ここは、光海君から王位を奪った仁祖の父元宗(実際には王位についていません。死後に贈られた王位です。)の私邸だったそうです。風水で「王気がたちこめている」という場所だと知り、宮殿の建設にとりかかりました。ところが、その光海君は完成を見ることなく、仁祖反正(クーデター)によって王位を追われてしまいます。その後、何人かの王がここを居所としてきましたが、日韓併合後、日本政府によってそのほとんどが取り壊されてしまいました。現在のものは、1980年代以降に復元されたものです。

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