朝鮮王朝の女たち

文定(ムンジョン)王后・尹氏の天下取り|中宗の時代

歴代王妃の中でも、悪名の高い女性たちがいます。その首位を争うと思われるのが文定(ムンジョン)王后です。朝廷の大物を相手に戦い続け、最後には国王をもしのぐ権力を手にしました。どんな女性だったのか、その戦いぶりをご紹介しましょう。

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文定王后 中宗の3人目の王妃

女運がない?中宗

中宗には、3人の王妃がいました。

糟糠の妻でありながら、中宗反正(クーデター)の功臣らによって妻の座から追われてしまった端敬王后・慎氏が一人目。彼女は、「チマ岩の伝説」で知られる人物です。彼女は、230年以上の時を経て、英祖のときにようやく王妃として認められ、「端敬王后」として追尊(死後に位を認められること)されます。慎氏のあと、中宗の正室となったのが章敬(チャンギョン)王后・尹氏です。彼女は、もともと後宮にいた人で、中宗反正の一等功臣らの勢力に押されて王妃となります。ところが、仁宗(第12代)を産んでまもなく、24歳で亡くなってしまいました。

そのあとに王妃の座に就いたのが文定(ムンジョン)王后・尹氏です。彼女を王妃に押したのは、実は章敬王后の兄、尹任(ユンイム)でした。文定王后・尹氏の父親と尹任は、近しい親戚の間柄でした。つまり、朝廷での勢力を維持し、甥(のちの仁宗)を即位させるために、一族の娘である文定王后をバックアップしたというわけです。

一人目の恋女房とは無理やり引き裂かれ、二人目の妻はお産で亡くし、三人目は女傑といわれた女性。もしかすると、歴代王様の中で一番女運のない王様かもしれませんね。

文定王后の敵になった尹任

 

尹任が勢力を維持するために、一族の娘から王妃を選んだにもかかわらず、皮肉にも文定王后は彼の最大最強のライバルとなります。

文定王后は、1男4女の子どもを産みましたが、すでに、章敬王后の忘れ形見である後の仁宗が、世子となっていました。世子の背後には伯父の尹任が大きな権力をもって控えています。となれば、ここで政争が勃発するのはお約束。

尹任にとってみれば、文定王后とその王子は目障り以外の何物でもありません。もちろん文定王后も、血のつながった自分の息子に王位を継がせたいですから、世子(のちの仁宗)と、その後継者である尹任が邪魔です。

大尹(テユン)と小尹(ソユン)中宗継承をめぐる激戦

二人の王子をめぐって、「尹(ユン)」さん一族のドロドロ劇が切って落とされます。当時の人たちも、どっちも「尹(ユン)」なので、ややこしかったんでしょうね。この状況を区別するために、それぞれを大小で呼び分けます。

  • 尹任と世子(のちの仁宗)……大尹(テユン)
  • 文定王后と王子(のちの明宗)……小尹(ソユン)

これなら、どっちの「尹(ユン)」さんの話をしているかわかりやすくなりましたよね。ところが、ことはそう簡単にはいきません。実は、さらに第三の勢力も存在していたのです。それが、中宗の寵愛を受けていた後宮敬嬪(キョンビン)・朴(パク)氏です。敬嬪は、中宗の長男である息子の福城君を王にしようと画策していました。まさに、王位をかけての三つ巴の戦いが繰り広げられていたわけです。中宗自身は、ぼんやりとした気弱な王様だったようですが、周りはとっても熱かったのですね。

さて、最初に脱落するのが、敬嬪・福城君とその支持勢力。「灼鼠の変」という事件で失脚します。

こうしてついに、王位継承をかけた「尹任VS文定王后」の大バトルが始まります。文定王后は、朝廷で勢力を伸ばしつつあった二人の弟、尹元老(ユン ウォンノ)尹元衡(ユン ウォニョン)とともに、政敵尹任を排除する機会をうかがいました。

息子を毒殺した母 文定王后

継子憎し! 世子宮に放火

大尹VS小尹の勢力争いは、ヒートアップしていきます。

実録には記録はないようですが、文定王后は、何度も世子(のちの仁宗)を亡き者にしようとしたと伝えられています。もっとも有名なエピソードは、世子宮に放火したというもの。もっとも世子は間一髪で救助され、この謀略は失敗に終わります。もちろん、朝廷では放火犯を探すべきだと大騒ぎになりますが、中宗が優柔不断でもたもたしているうちに、時間だけを費やし、この件は結局うやむやになって終わってしまいました。

文定王后の仁宗暗殺計画が失敗を重ねるうちに、ついに時が勝敗を決します。なんと、中宗は57年の生涯を閉じてしまったのです。つまり時間切れ、ですね。父王が亡くなったのですから、世子が即位するのは当然。こうして、仁宗が即位します。

孝行息子に救われる

 

もちろん、仁宗が即位すれば、文定王后らの敗北です。彼女をはじめ小尹派は、大尹派=尹任らによって、政治的に追放、抹殺されるはずでした。

ところが、仁宗は実は並外れた孝行息子だったといいます。継母であっても、文定王后を実の母として大切にし、逆に文定王后に憎まれている自分の方が悪い、孝行が足りないと思っていたそうです(どんだけお人よしんだ)。しかもそんな仁宗は、在位わずか9か月あまり、30歳で亡くなってしまいました。

もちろん、その死の背後には文定王后の影があると、当時の人々が考えたのも無理はありません。

一説によれば、文定王后は、「このままでは尹任に、慶源(キョンウォン)大君(文定王后の王子・のちの明宗)ともども殺される。それならいっそ寺にこもって中宗の冥福を祈りたい」と仁宗に泣きついたのだそうです。孝心に篤い仁宗は、韓ドラ名物「座藁待罪(ソッコテジェ・ゴザの上で座り込みして訴えるアレ)」でなんとか、文定王后をなだめようとします。が、6月半ばの暑い盛りにそんなことをすれば、健康な人でも熱中症になるのが当然。まして、仁宗は虚弱でした。そのまま倒れて寝込んでしまい、病状が悪化、しかもこのとき文定王后は、弱っている仁宗の体に悪い食事を出し続けたといいます。

また別の説によれば、文定王后は見舞いの際に餅を差し出し、それを食べた仁宗が急に苦しみだして亡くなったともいいます。

いずれにしても、文定王后はそれだけの噂を立てられるほど、恐ろしい女性だったことは間違いないのかもしません。仁宗が亡くなり、ついに文定王后の息子・慶源大君が第13代王として即位します。

文定王后の垂簾聴政

まさに大逆転!大尹派は風前の灯火

仁宗には後継者がいませんでした。一説によると、継母である文定王后の意思に沿おおうとして、異母弟の慶源大君=明宗に王位を譲るため、自分の子をもうけなかったともいいます。仁宗の後を継いで王位に就いた明宗は、このとき11歳。当然、政治などできませんので、母親である文定王后の垂簾聴政が始まります。仁宗の即位によって窮地に立たされていた文定王后にとっては、大逆転です。朝廷の大勢は、文定王后の弟尹元衡の一派にわたります。尹任ら大尹の命は風前の灯火でした。

乙巳士禍(ウルササファ)

尹元衡は、政敵を排除するための常套手段、「謀反」をでっちあげます。ドロドロ韓国ドラマにはよくあるパターン。お約束ですね。

尹元衡は、「尹任が、中宗の八男である鳳城君(ポンソングン)に王位を継がせようとし、また仁宗が死去した時には成宗の三男桂城君を擁立しようとした」という噂を広めます。もはや尹任に対抗するすべはありませんでした。尹元衡は、この噂を口実にして、文定王后に彼らの粛清を求めます。その結果、尹任は自害し、家族やその一派は流罪となりました。

この事件を「乙巳士禍(ウルササファ)」といいます。

ドラマチックな悪女たち 文定王后と鄭蘭貞

政敵を排除した尹元衡は、さらに自分に不満を持っていた兄の尹元老(ユンウォルロ)まで配流にして自害させます。しかも、姉が姉なら弟も弟、愛妾鄭蘭貞(チョンナンジョン)と共謀して、正妻を毒殺し、鄭蘭貞を継室として迎えるのです。鄭蘭貞は、尹元衡の権勢をバックに商権を掌握して、専売や暴利行為で巨万の富を蓄えたといいます。

邪魔者がいなくなり、かつ暴利とワイロで大富豪となった尹元衡は、やりたい放題。そのうえ、文定王后もわがまま放題。

この二人は、親政後の明宗をとことん苦しませました。

王の権威は地に落ち、朝廷の大臣たちは権力を独占して専横を極め、私利私欲を満たすのに奔走するような朝廷では、社会も収まるはずがありません。民心は病み、そこに凶作が追い打ちをかけました。民衆は飢餓に苦しみ、各地では盗賊が出没。さらに、倭人が全羅道へ侵入、一部を占領するという事件までおきます。この事件を「乙卯倭変」といいますが、これによっても民衆は大きな被害を受けました。

しかも、儒教社会にあって、文定王后は仏教を厚く信仰したことでも知られています。信仰するだけならまだしも、僧侶を朝廷の重役に就けるなど、政治に個人的な価値観を押し付けました。こうした混乱の根本は、すべて文定王后にあったといいます。明宗や心ある臣下や民衆は、王権を気ままに振りかざし実弟の専横を許した彼女の死を、ずっと待ち望んでいたというのも無理はない話です。

彼女の死後、朝廷の仏教勢力は追放され、尹元衡は鄭蘭貞ともども黄海道へ流され、のちに自殺しました。そして明宗は、人材を適切に登用し、善政を施すのに力を尽くしました。その結果、朝廷と社会は次第に安定と秩序を取り戻していくのです。

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