韓ドラの時代劇に、「党争」が出てこないというものはありません。必ず、その時代その時代を牛耳っている勢力があって、それに対抗する一派があって……という構図が基本です。でも、作品によって同じ一派が、悪役に回ったり正義の味方に回ったりするので、ややこしい!と思ったことありませんか?ちょっと長くなりますが、党派の対立関係等を、簡単にまとめてみました。
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「勲旧派(フングパ)」と「士林派(サリムパ)」の対立
簡単に言うと功臣と学者の対立
第7代王世祖(セジョ)は、ハングルを創った第4代王世宗(セジョン・ソウルの景福宮前に座ってる銅像の人)の次男。父親が4代目なのに、次男が7代目とずいぶん間が空いていますね。まずは、この理由に注目です。
世宗の死後にその後をついで王になったのが、世祖の兄の第5代王文宗(ムンジョン)です。ところが、在位わずか2年で文宗が逝去、その息子であった幼い端宗(タンジョン)が第6代王として即位します。この端宗から王位を奪ったのが、世祖です。もちろん、そんなことが一人でできるわけもありませんから、世祖を助けた家臣たちがいます。彼らは世祖が王位につくと、手柄のあった家臣(功臣)として政治の実権を握ります。彼らを、「勲旧派」といいます。その勢力は、世祖の孫である成宗(ソンジョン)のころまで続きます。
成宗は幼くして王位に就いたので、しばらくはこうした「勲旧派」の勢力のもとに甘んじるしかありませんでしたが、成人して親政を開始すると、「勲旧派」の権勢を抑えるために地方の儒者たちを中央に呼び寄せて起用していきます。そうした新進の儒者グループが「士林派」です。「嶺南(ヨンナム)士林派」ともいいます。「嶺南」とは慶尚道のことです。ちなみに彼らが朱子学に傾倒していたので、朝鮮の儒学は朱子学だけを尊重するようになっていきます。ガチガチの身分制度や、男尊女卑の社会になっていくのはそのせいでもあります。
はてな
朱子学(朱子学):儒学の一派。中国・南宋の時代に朱熹 (しゅき)によってまとめられました。身分秩序を重んじる学派だったので、封建制度を維持するために江戸幕府も朱子学を重んじました。
「士禍(サファ)」とは?
士林派は、自らこそが朱子学の正当な継承者であると自負しており、堯舜(古代中国の伝説上の聖君)の政治を理想に掲げていました。その実践を目指し、また「君子」であることを自認していましたから、勲旧派の人たちのことを「小人(つまらない人物)」として見下していたのです。もちろん「勲旧派」は、黙って屈辱に甘んじていたわけではありません。この生意気な新興勢力「士林派」を、徹底的に弾圧します。そのため、たびたび「士禍(サファ)」と呼ばれる政変がおきます。「四大士禍」と呼ばれる事件は特に有名です。
王に翻弄される士林たち
士林派は、勲旧派が中央集権体制を強調したのに対して、郷村自治(いまでいう地方自治)を掲げ、道徳と義理を基礎とした王道政治を強調しました。今風にいえば、中央集権VS地方分権ということです。地方で社会的にも経済的にも地位を固めた士林は、中央政界に進出し、次第に権力を握るようになってきました。やがて、勲旧派をもけん制するほどに成長するのです。
彼らは、もともとが学問(儒学)を修めた人たちですから、科挙を通して中央政界に進出してきました。特に、吏曹のなかでも要職であった「銓郎(チョルラン)」と、エリートコースの筆頭「三司」の言官職を独占して、勲旧派の非理(道理に反すること)を痛烈に批判したのです。
勲旧派の勢力をけん制するために、第9代王成宗も彼らを重用し、政治勢力の均衡を図ろうとしました。成宗のあとを継いだ燕山君は、両派をともに押さえて王権を強化します。特に彼は、二度にわたる士禍を行います。そのため、慶尚道を中心として勢力を持っていた嶺南士林と呼ばれる人たちの大部分が没落します。燕山君の失脚によって即位した第11代王中宗は、クーデター(中宗反正)の功臣たちを抑えるために、士林を再び登用して儒教政治を行おうとしました。特に、当時名望のあった趙光祖(チョ グァンジョ)を重用します。さらに、賢料科(けんりょうか 薦挙の一種。身分に応じて登用する制度)を通して、大勢の士林を登用したことにより、急進的な改革を推し進めました。例えば、経筵(キョンヨン)の強化と言論活動の活性化をはかり、さらに、昭格署(ソギョクソ)の廃止や小学(儒教の入門書)の普及、などを政策として掲げます。
しかし、中宗反正のときの功臣たちの反発によって、趙光祖と士林らの多くは一掃されてしまいました。その後も、中宗は士林を登用して、功臣たちをけん制しようとしますが結局、失敗。さらに、中宗の子、明宗が即位すると、今度は外戚の権力が拡大し、士林派は再び政界から追われてしまいます。それでも士林派は、地元である郷村で、粘り強く勢力を拡大させていくのです。
はてな
- 経筵(キョンヨン):王の御前で儒学の経書と史書を講義し、論議すること。またはその席。
- 昭格署(ソギョクソ):伝統的な民俗祭祀を司る役所。道教の影響も受けており、迷信などを嫌う儒教とはしばしば対立。
士林同士の分裂
朋党
第14代王宣祖(ソンジョ)の時代、士林派が再び勢力を盛り返し、政局を主導するようになります。やがて士林は、考え方や利害をともにする人たち同士で政治的に結びつきを強め、派閥を形成するようになりました。こうしたグループのことを「朋党」といいます。
宣祖の時代は、その先代の明宗の時代に国王の外戚として勢力をふるった一族らを、どのように清算するかが問題となりました。明宗の時代から政権に参加してきた既成の士林勢力は、外戚が行ってきた政治からの大幅な転換や改革には、消極的。一方で、新進の士林たちは外戚を一掃して士林政治を実現させることを強力に主張します。つまり、新旧の士林勢力の対立です。対立する相手がいなくなった士林派は、権力を握った途端、今度は互いの利害関係から激しく対立、衝突するようになっていくというわけですね。
この対立が深まると、既成の士林(明宗時代からの士林)らを中心として西人(ソイン)、新進の士林を中心として東人(トンイン)というグループが形成されました。これが朝鮮王朝での朋党政治の始まりです。以後、朋党はそれぞれの政治的理念と、学問的傾向によって結束を強めていきます。政党としての性格と、学派としての性格とを同時に持つようになるというわけです。
不毛な争いをしているうちに秀吉に攻め込まれる
宣祖の時代、この士林の東西対立は極限に達します。まず東人の勢力が、西人の勢力を弾劾。次々と、政界から引きずりおろしていきました。東人によって、朝廷の権力が掌握されたかと思ったところで、東人側の謀反事件が持ち上がり、一気に形勢は逆転。朝廷は西人の手に渡ります。
しかし、それもつかの間、今度は、世子冊封に関わって西人が失脚。再び東人が勢力を得ます。宣祖には、嫡出の男子がいなかったため、世継ぎの問題がこじれていたことが発端でした。東人が政権を握ると、西人を大々的に粛清します。
まるでシーソーゲームですね。しかし、絵にかいたようなドロドロの政争を繰り返しているところへ、とんでもない知らせが入ってくるのです。それが、日本でいうところの文禄・慶長の役。いわゆる豊臣秀吉の朝鮮出兵です。秀吉が攻めてくるか来ないかという切迫した状況にあったにも関わらず、朝廷内部では勢力争いに明け暮れていたわけです。挙句の果てに、なすすべもなく宣祖は都を捨てて逃げ出し、景福宮は灰燼に帰すという歴史に残る大失態を演じてしまうのです。
四色(サセク)党派
それはさておき。東西分裂した「士林派」は、さらにそれぞれが内部で二つに分裂します。
西人派は、「老論(ノロン)派」と「少論(ソロン)」に、東人派は「南人(ナミン)派」と「北人(プギン)派」とに分裂しました。さらにややこしいことに「北人派」は、「大北派」と「小北派」に分裂します。
「老論(ノロン)派」と「少論(ソロン)」、「南人(ナミン)派」と「北人(プギン)派」、これを「四色(サセク)党派」といいます。韓国ドラマ時代劇では、だいたいこの4つを覚えておけばOK。時代ごとに出てくる党派がだいたい決まっているからです。参考までに、かなり大雑把ですが、時代的には次のような対立構図になります。
- 宣祖から光海君の時代は、東西対決。光海君の時代には特に「北人派(大北派)」が大きな勢力を待っていました。
- 仁祖から粛宗の時代は、西南対決。粛宗は、両者をうまく交互に使い分けました。
- 景宗から正祖の時代は、老少対決。英祖や正祖は、なんとか両者を平等に使おうと苦心しました。(蕩平政治)
はてな
安東金氏:第23代王純祖妃の純元王后・金氏の父は、豊壌趙氏や南陽洪氏といった有力な家門の協力を得ながら、政治を牛耳るようになっていきます。これを勢道政治といい、純祖から60年余りの間続きました。